日本相撲協会のトップで、憎らしいほど強いと言われた「昭和の大横綱」が62歳の若さで急死した。悲しみに浸る一方で、協会内部では空白となった理事長職を巡ってがっぷり四つのバトルが激化。2人の親方がガチンコ勝負に挑む舞台裏を全て書く!
「亡くなる直前の北の湖理事長は内臓の重さによる負担がキツイためか、立ったまま腰を折り、両肘をテーブルなどに乗せる格好で、理事長席にもほとんどいませんでした。顔は土気色で、先の九州場所中の夜、宿舎で洗面器に吐血した。のたうち回るように『ウェーッ、苦しい!』『痛い、痛い』と叫んで‥‥。もう見ていられませんでした」
こう語るのは、相撲協会関係者だ。11月20日の午後5時半に倒れて救急車で病院に搬送され、意識がなくなった北の湖理事長は6時55分、帰らぬ人となった。優勝争いが白熱した九州場所13日目のことである。この関係者が続ける。
「想像を絶する苦痛。思えば11年、前代未聞の八百長騒動で場所を休止した年から、直腸ガンの影響で人工肛門をつけ、ものすごいストレスの中で病魔と闘っていたんです。信じられないというか、不屈の精神でしたね」
素直で素朴な人柄。だが「憎らしいほど強い横綱」として、誰もが畏敬の念を持っていた。
大相撲に詳しい漫画家のやくみつる氏が言う。
「圧倒的な攻めの相撲で、無類の強さを誇った。北の湖は相手を投げ飛ばしたり、土俵の外に突き出したりしても、決して手を差し伸べなかった。負けた力士に手を差し伸べるなんて、相手には屈辱。絶対やるべきではない、という彼の相撲哲学によるものでした」
かつては子供が好きなものの代表として「巨人、大鵬、卵焼き」と評されたが、当時は子供の嫌いなものの代表として「江川、ピーマン、北の湖」と言われたものだ。
元NHKアナウンサーで、60年以上、大相撲報道に携わっている杉山邦博氏は賛辞を惜しまない。
「大鵬は攻めと守りを兼ね備えた相撲を取りましたが、強いという言葉の響きを考えると、やはり北の湖です。群を抜いた攻めの相撲。負けることもあるが、鎧袖一触、相手を圧倒する強さがあった」
「輪湖時代」と呼ばれた、横綱に昇進した初期の頃、北の湖理事長はライバル横綱の輪島に逆転を喫することが少なくなかった。前出・杉山氏が言う。
「自分十分の体勢になるまで我慢すればいいのに、不利な体勢のまま出ていって逆転されることがあったんです。昭和53年の名古屋場所、両力士は全勝で対決した。2分を超える熱戦となり、水入り。勝負を再開してすぐに北の湖は右上手投げを連発し、自分十分の体勢になると、引き付けて寄り切った。北の湖時代の幕開けでした」