〈現代は時間との戦いです。クイズ、タ~イムショック!〉
69年1月に始まったNET(現・テレビ朝日)の「クイズタイムショック」は、テレビ司会者として田宮の新たな魅力を引き出した。さらに、映画界から締め出された田宮は、決してうまくない歌を歌い、全国のキャバレー回りをして家族を守ろうとした。
しかし、夫人はそうではなかった。
「田宮が目標としていたのは『風と共に去りぬ』(39年)のクラーク・ゲーブル。大きくて、色っぽさがあって、それでいて繊細な優しさも持ち合わせていた。それであれば田宮にもジタバタしてほしくなかった」
幼少期に両親を亡くした田宮は、「貧乏」ということに異様に敏感だったという。それでも夫人には考えがあった。料理の腕前には自信があるので、どんな安い食材でもおいしく作ることができる。さらに「五社協定」も長くは続かないだろうという読みもあった。
実際、大映が71年に倒産したことと前後して、田宮は映画界にも復帰を果たしている。
「お金のことは気にせず、あなたは自分の人生を守ってほしいと言ったんです。それでも田宮は、純粋な人ですから全て1人で背負い込んでしまう。後に躁うつ病と診断されて死に至るのですが、その兆候は大映を追われた頃からあったと思います」
田宮は71年に「田宮企画」を設立し、その代表取締役には幸子夫人が就任している。いわばお目付け役でもあったのだが、テレビに活躍の場を移した田宮とは、ことごとく意見が食い違ってゆく。
クイズ番組、CMと活躍している田宮だったが、72年には「知らない同志」(TBS)でドラマ初主演。この作品こそ夫人も納得する出来だったが、73年の「白い影」(TBS)に始まった“白いシリーズ”は、世間の評価とは逆に、厳しい目で見ていた。
「田宮主演ということで企画が立ち上げられ、そこからテレビ局への売り込みという形になります。ただし、その時点では全26話の脚本は出来ていないんです。私から見たら『お金に転んだような仕事』としか思えない。シリーズが終わるたびに、もう、これっきりにしてほしいと言いました。それでも田宮は、また同じことを繰り返すんです」
最高視聴率26.9%を記録した「白い滑走路」(74年)など、TBSにおける田宮の主演ドラマは9作も続いた。それでも、夫人が指摘したように自転車操業の作り方が視聴者にも見透かされたのか、最後の何作かは視聴率も低迷している。そして田宮が、日一日とすり減っていくのが夫人にはわかった。
田宮が大映を追われた時、夫人はまだ25歳だった。懸命に夫を支えてはいたが、それでも田宮のストレスを受け止めきれなかったのではないかと思うことがある。
それから10年後、78年の田宮は、もはや手がつけられない状態になっていった──。