日本で初めて、映画からテレビに主戦場を移したスターが田宮二郎である。映画界追放を受けた苦悩はありながら、結果的に「時代の流れ」に先んじた形となり、多くの俳優があとに続く。主演ドラマやCMで華々しい活躍を見せたものの、唯一、夫人だけは冷ややかに“幻の栄光”を見つめていた──。
〈五社協定、五社協定と言うが、あれじゃタコ部屋の強制労働みたいなものではないか?〉
そんな論調がマスコミの間にも多くなった。68年、田宮二郎が永田雅一社長との衝突により、忠誠を尽くした大映を追われてのことである。いや、大映だけでなく、永田は「五社協定」を旗印に、いかなる映画・ドラマの出演も禁じたのだ。
元女優・藤由紀子こと幸子夫人(73)は「人権無視の不当な協定」とするマスコミの声に救われながら、それでも、事実は事実として厳粛に受け止めた。
「誰の見送りもなく、1人、大映の門を後にした寂しさは田宮本人にしかわからないと思う。また、大映に田宮の姿はもうないと残念がるスタッフの気持ちも大きいと思います」
78年12月28日、田宮が自宅の寝室で猟銃で命を絶ってから38年─これまで沈黙を続けてきた未亡人が初めて独占取材に応じた。それはひとえに、田宮がいかに苦しみ、いかに破滅へ向かったかという“真実の姿”を伝えたい意志にほかならない。
前章で書いたように、映画「不信のとき」(68年)のポスターの序列を巡る口論がもとで、田宮は永田と袂を分かつ。奇しくもその直前、田宮家で夕食を共にした永田は「田宮を世界で売り出す」と、威勢のいい“永田ラッパ”を吹いていたというのである。
そして映画界を追われた田宮は、俳優ではなく司会者としてテレビに活路を求めた。田宮のスタイリッシュな持ち味を生かした「クイズタイムショック」(69~78年、NET)は人気番組となり、幸先のいいスタートを切った。
さらに俳優としてもTBSと専属契約を結び、73年の「白い影」を皮切りに“白いシリーズ”がスタートした。山口百恵の“赤いシリーズ”と対をなして人気を博したが、夫人には不満が残った。
「1作目が当たったものだから、それにあやかって何でもタイトルに『白』をつけただけ。撮影が始まってからストーリーを作るようなご都合主義で、内容はどれも似通った筋書きのメロドラマ。必然性に欠ける内容でした」
幸子夫人は71年に「田宮企画」の代表に就任している。妻として田宮を支えながら、どこか冷静な分析をしていた。やがて、夫人が危惧したように、田宮はドラマにおいても孤立感を深めていく──。
「断りきれずに次のシリーズを引き受け、それで2ケタの視聴率は取ってしまう。だから、現場でもめ事にならないわけがないんです。最善を尽くそうとする田宮は、ストーリー作りにも知恵を絞り、脚本家や演出家の範疇に入っていった。そうなるとカメラマンも含めて、いらぬ恨みを買うことになってしまいます」
お互いがコリゴリと思っていながら、また新たなシリーズが発表される。責任感の強い田宮の姿勢は、後に「みじめな姿」に追い込まれてしまったと幸子夫人は思った‥‥。