田宮にとって永田は、そして永田が率いた大映は、全てを捧げる対象であったという。そのため、年下の新人女優が自分よりギャラが高くても、不満をぐっとこらえた。
まだ20代の前半でありながら、家を建てたのも夫人のほうが先だった。
「今思えば、私が母と住んでいる家に田宮が越して来た頃こそ、最も笑いが絶えない日々でした。私は田宮が連れて来る10人分、15人分のメニューを用意する毎日。メインの料理だけでなく、田宮が好きだった麻雀が始まれば、そこでうどんやお寿司を用意するのも私の役目」
やがて田宮は、その家よりも大きな邸宅を自身の収入によって構える。
この城に敬慕する永田が訪ねてきた時のことだ。田宮は色紙を用意し、永田に一筆したためてほしいとお願いした。永田は、そこに「忍」の1文字を書き込んだ。
それは、田宮ほどのスターでありながら、要所要所で忍耐を強いたことへの詫びとも、あるいは、さらに事態が複雑化することへの予言とも取れる。
実際、大映という会社の業績も含め、事態は好転しなかった。50年代にはカンヌやヴェネツィアで数々のグランプリに輝いた大映作品だったが、64年には直営館も少なく、中堅の映画会社に縮小されていた。
「そのためでしょうか、嫉妬が絡んで、田宮を引きずり降ろすような人も出てきました。それは役者にもスタッフの側にもいたと思います」
例えば「悪名」でも、シリーズの後半になると田宮のセリフが激減する。主演は勝新太郎だが、むしろ、軽妙な田宮の演技こそがヒットの要因とされた。
「ヒットした『悪名』も『犬』シリーズも、田宮のおもしろさによって成り立っていたと思います。例えば『犬』では田宮のガンさばきが評価されましたが、家ではずっとモデルガンを使って練習しているんです。人前でそうした姿を見せないけど、永田さんのために努力を惜しまないんです」
そんな忠誠心は、68年に公開された「不信のとき」で打ち砕かれる。主演は田宮であったが、ポスターが刷り直され、メインに若尾文子が置かれ、田宮は1番手から4番手の扱いに下げられている。
これまで「忍」の精神だった田宮も耐えきれず、永田のもとへ抗議に出向く。夫人もこの場に同行したが、永田の様子もまた尋常ではなかった。
「タバコを持つ手がグラグラと揺れていました。永田さんには『我慢してくれ』と言われましたが、結局、このことで大映を追われる形になってしまいました」
映画のタイトルではないが、夫人は「不信につぐ不信」がもたらしたものだと言った。愛する永田と大映による「裏切り」であると思った。
激高した永田は、自身が提案した「五社協定」を持ち出し、他社の映画やドラマにも田宮を使うなと通達する。ここで苦境に立たされた田宮だったが、それでも夫人の思いは別のところにあった‥‥。