●ゲスト:山本晋也(やまもと・しんや) 1939年、東京都生まれ。1963年に日本大学藝術学部演劇学科を卒業。日本教育テレビ(現テレビ朝日)のADを務めたあと、1964年、岩波映画製作所にて羽仁進氏に師事して助監督となる。その後、成人映画の現場に入り、1965年の「狂い咲き」で監督デビュー。人気作「未亡人下宿」シリーズなど数多くの成人映画を手がける一方で、「下落合焼とりムービー」(79年)や「欽ちゃんのシネマジャック」(93年)など一般作の監督も務めた。テレビ朝日の深夜番組「トゥナイト」「トゥナイト2」では、主に性風俗関係のレポーターとして約21年間出演。ここから生まれたフレーズ「ほとんどビョーキ」は流行語になる。その後もタレント、レポーターとして活躍。近著は「カントク記 焼とりと映画と寿司屋の二階の青春」(双葉社)。
笑えるポルノ映画として大ヒットした「未亡人下宿」シリーズなどを手がける一方でバラエティ番組にも出演、「カントク」の愛称で人気を博した山本晋也氏。天才テリーを相手に、監督デビューの裏話、故・赤塚不二夫氏との交流、懐かしの風俗レポートの思い出を語り尽くした!
テリー カントクの新刊、読ませてもらいました。まず映画監督になった経緯がユニークですよね。
山本 うん。僕ね、中高の6年間、ずっと早稲田だったんですけど、そんなに行ってると、もう飽きてきちゃうのよ(笑)。いつまでも親の敷いたレールに乗ってるのも、嫌だったしね。
テリー わかりますよ。
山本 そしたら大学受験が迫ってきた頃、友達が日藝(日大藝術学部)の入学願書か何かを持っててさ。見たら「映画学科」「演劇学科」「写真学科」とか書いてあるから、「ここだ!」と思って。
テリー その頃から映画はお好きで?
山本 子供の頃から夢中で観ていましたよ。中学に入ると、部活で「映画研究会」があって、見学に行ったら「活動はひたすら映画を観ること」なんて言ってる。「こりゃあ、たくさん映画が観られるぞ!」って迷わず入部した。
テリー そりゃ、夢のような部活ですね。
山本 で、たくさん映画を観ているうちに、予告やポスターに「20世紀フォックス」とか「ユニバーサル」とかいう会社名が入ってることに気づいて、そういう仕事に漠然と憧れるわけですよ。ただ、どうすれば早稲田からそっちの世界へ行けるのか、それがさっぱりわからない。
テリー なるほど。だから日藝の案内を見た時に「ここだ!」と思ったわけですね。で、そのあとは?
山本 夏休みは、友達の誘いを受けて、テレビ局のADや助監督のバイトをしていたんですけど、ある時、助監督をやっていた、とある先輩から「お前、オ○ンコ映画って知ってるか?」と聞かれてね。
テリー アハハハハハ! ストレートでいいですねぇ、オ○ンコ映画ッ(笑)。
山本 まだ「ピンク映画」とか「成人映画」なんて言葉もない時代ですから。で、「バイトやるかい? お前は気がきくから」って言ってきたもんだから、「何でもやります」って参加した。それが初めての成人映画の現場ですよ。確か大学2年だったかな。
テリー へえ、最初はどんなシーンに参加したか覚えてますか?
山本 風呂場のシーンですね。僕の仕事は旅館の狭い風呂に湯を張ることだったんだけど、その時に見た女優の体がとても美しく見えましてね。あとで知ったんだけど、カメラ映えするように、ハケで女優の体に薄く水白粉を塗っているんですよ。そこにライトが当たって、神々しく見えたんだね。
テリー 文字どおり、光り輝いて見えたと。
山本 でも当時はそんなことを知らないから「これはスゴい!」とすごく感激してね。それで「この仕事に決めた!」と思ったわけ。
テリー だけど、さっき言ってた20世紀フォックスみたいな憧れのアメリカ映画から一転しての「オ○ンコ映画」の仕事って、抵抗はなかったんですか?
山本 いや、当時は学生だし、そんなに深いことは考えてなかったな。とにかく、おもしろければ何でもよかったんですよ。