シンクロ史上きっての“絶世の美女”が藤井来夏(42)だ。2大会で残した成果に飽き足らず、今なお、シンクロを世の中に届けようと気を吐く。
シンクロナイズドスイミングが五輪競技になったのは、84年のロス大会である。当初は「ソロ」と「デュエット」のみで、やがて、96年のアトランタからソロに代わり8人編成の「チーム」が採用される。
藤井は、記念すべき最初のメンバーだった。
「私だけではなく、8人全員がオリンピック初体験だったんですよ。選手も大変だけど、チームリーダーの金子正子先生や、コーチの井村雅代先生はさらに苦労されたと思います」
チーム競技が生まれたことで、シンクロはさらに華やかな光を放った。ただし、水面下での体力消耗量は激しく、食事も「ドカ食い状態」が求められる。
「私も54キロまで体重を増やすノルマがあったんですが、毎日、練習で2キロは減ります。1日に4000キロカロリーの摂取を目標に、食事以外に栄養補助食品を口にしたり、晩ごはんのあとにもう1食というのがつらかったですね」
そして大会が始まると、メダルのプレッシャーがのしかかる。チームとしては初めてだが、これまでソロやデュエットでメダルを逃したことがない。しかも、前年の大きな大会では4位に沈んでいた。
「結果は銅メダルでしたが、全員が初参加でうれしいのはもちろん、逃さなくてホッとしたという気持ちも正直、ありました」
4年後のシドニーには、藤井ら4人のメンバーが残った。8人が呼吸を合わせるために練習時間は長く、1人のミスが影響するため集中力も切らしてはいけない。そして、順位を1つ上げて銀メダルを獲得。
「アトランタの時が大学4年で、そこで引退していてもおかしくなかったんです。でもデュエットメンバーになりたくて続けて、そちらの代表にはなれなかったけど、チームでいい成果を出せてよかったです」
引退後の藤井は、シンクロをより多くの人に見てもらおうと「ライカエンターテイメント」を主宰する。わかりやすく言えば「プロのシンクロチーム」である。企業やホテル、テーマパークのプールでショーを開催する。
「プロと言っても、スケートのようにきちんとしたプロ競技があるわけではないんです。ただ、引退してコーチや審判の資格を取る人は多いけど、私には向いていないと思いました。それでメンバーを集めて、初めての試みとしてやるようになったんです」
もっとも、競技で使うような水深を満たすプールは少ない。浅ければ浅いなりに演技を変え、また客層がファミリー向けなのか、企業の大人のみなのかを考慮しながらメニューを組み替えていくという。
「こうしなきゃいけないというルールは一切ないから、楽しんでもらえたらそれだけでうれしいですね」
四十路を超えても水上を舞っているだけあって、驚くほど若々しく、そして美しい──。