日本初の大人のためのアニメといわれた「千夜一夜物語」製作の最終盤、この作品に賭ける手塚治虫の意気込みは鬼気迫るものがあった。だが、雑誌の締め切りは待ってくれない。手塚プロの唯一の出入り口に鍵を掛け、その手前にソファを2段積み上げて、寝不足の私はその上で丸まって仮眠をとった。30分後、目を覚ますと手塚の姿が消えている。アシスタント5人に尋ねると、
「よじ登って志波さんを乗り越えて出て行きました」
逃げられたか。諦めてソファに戻って寝直し、3時間ほど経っただろうか。ふと目を覚ますと、手塚がカリカリと原稿を描いている。
「先生、お帰りなさい」
「ボクはずっとここで描いてましたよ。トイレに立ったくらいだよ。あなたはあそこで爆睡してたじゃないですか」
園山俊二は早大漫研の大先輩である。入社3年目にこの大先輩の担当になった時は緊張したが、実に優しい人で、締め切りに遅れることも皆無。その先輩と麻雀卓を囲む機会があった。
「何かおかしいよね」
と園山先輩。対々(トイトイ)を狙い、何度か鳴いた先輩の前には牌が3枚しかない(本来、4枚が残る)。少牌である。チョンボで罰金なのだが、大先輩にそれを言うのははばかられる。その時、園山先輩が、
「あ、それポン!」
いったいこの人は何を考えているのだろうか。奇人変人というより‥‥。
締め切り直前に「敵前逃亡」する漫画家もいた。かつて潜水艦モノで名を馳せた小沢さとるは、行方不明の「常習犯」。すると「作者急病のため休載」という事態が起きる。「少年ジャンプ」創生期に、部数維持の重責を1人で背負うことになった貝塚ひろしも、10話目のペン入れをした段階で行方不明となり、直後はアシスタントが代筆したという話もあった。多くは締め切りに間に合わなくなり、怖くなって逃げ出してしまうのだ。だからどの雑誌も代原(代替原稿)を用意していた。
流麗で物悲しい絵を描くあすなひろしという職人肌の漫画家がいた。15年前に亡くなったが、当時の漫画家でただ一人、完成画稿と引き替えに現金(原稿料)を受け取るという条件を死守した。30年も前のことだが、月刊誌で45ページを2回、計90ページの作品の担当をしたことがある。前編は締め切り2日前に完成し、画稿と引き替えに原稿料を手渡した。
翌月、44枚の画稿が完成し、最終ページの下半分に感動的結末を描くところでペンが止まった。下書きの絵では納得できないと言い出したのだ。
「気分転換したいから、原稿料をちょっとだけもらえないかなぁ」
志波秀宇(しば・ひでたか)<漫画 研究家>:昭和20年東京生まれ。早大政経学部卒。元小学館コミックス編集室室長。元名古屋造形大学客員教授。小学館入社後、コミック誌、学年誌などで水木しげる、手塚治虫、横山光輝、川崎のぼるなどを担当。先頃、日本漫画解説の著書「まんが★漫画★MANGA」(三一書房)を出版した。