例えば、以下の会話を見てみよう。
男「花子さん、愛してる。ボク、もう我慢できない」
女「嬉しい。私だって、もう‥‥」
こんな描写に、読者は心を動かされない。面白くも何ともない。しかし、この男のセリフが左ページ下(最終コマ)にあったらどうだろうか。相手の女性は拒絶するかもしれない。読者はドキドキしながらページをめくる。もどかしくページをめくる作業が、平凡な作品を面白く感じさせる。これが漫画の構成力だ。
野球漫画でよくあるパターンとして、甲子園地区予選決勝、投手である主人公のチームが2対1で勝っている状況と設定しよう。9回裏、敵チームの攻撃。二死満塁、フルカウント、打者は敵の4番。主人公が最後の球を投げる。打者の目が輝き、カーン!
打球はピッチャーゴロ。難なくこれを捕球して一塁送球。試合終了。主人公のチームは甲子園に──。
何ともつまらない、ありきたりの物語だ。しかし、これを漫画にした時、描き方ひとつで作品の魅力が数倍、数十倍にも跳ね上がる。おわかりだろう。左ページ下にどのシーンを描くかである。ピッチャーゴロが描かれていたら、面白くも何ともない。だが、敵の打者の目が輝いたところ、あるいは「カーン!」という打球音が左下に描かれれば、読者はドキドキしてページをめくる。それだけで面白さはぐんとアップする。こうした構成力は、日本の漫画が他を圧倒している。
擬声語の効果も、微妙な雰囲気を伝える技法として、日本漫画を下支えしている。
〈音ひとつしない場面に「シーン」と書くのは、じつはなにをかくそうぼくが始めたものだ〉(手塚治虫「マンガの描き方」より)
シーンという擬声語を最初に描いた漫画家が手塚治虫かどうか異論はあるが、手塚本人がそういっているのだから疑ってはいけない。手塚は同時に、
〈ものが消えるとき「フッ」と書いたり、顔をあからめるとき「ポーッ」と書いたり、木の葉がおちるときに「ヒラヒラ」と書く〉
と、擬声語の効用について語っている。その指摘のように、日本漫画には擬声語が恐ろしく多い。
「アメコミのほうが擬声音が格好いい!」という若者もいる。その気持ちはよくわかる。アメリカン・コミックにも当然だが、擬声語がたくさん出てくる。バイクが疾走する音「BROOOM」とか、爆発音「BANG」など、デザイン処理された文字はお洒落で格好いい。かつては私もアメコミの魅力にハマッたものだった。
しかし擬声語の質、量に関しては、日本漫画が他を圧倒する。静けさを表す「シーン」に限らず、自然が生み出す音や動物の声、人の心の動きまで、日本の漫画にはさまざまな擬声語が登場し、それが読者の心に染み入る。若い男女が見つめ合うシーンに、「どっくん、どっくん」などという擬声語が描かれただけで、2人の興奮の度合いが皮膚感覚として伝わってくる。
志波秀宇(しば・ひでたか)<漫画 研究家>:昭和20年東京生まれ。早大政経学部卒。元小学館コミックス編集室室長。元名古屋造形大学客員教授。小学館入社後、コミック誌、学年誌などで水木しげる、手塚治虫、横山光輝、川崎のぼるなどを担当。先頃、日本漫画解説の著書「まんが★漫画★MANGA」(三一書房)を出版した。