1980年10月21日、千代田区大手町にある読売新聞社の大会議室で、長嶋茂雄は300人の報道陣に語りかけた。
「2000万人とも2500万人とも言われる(巨人)ファンの皆様に対し、成績が不本意(61勝60敗9分け。3位)だったという、そのことのみで、男としてのケジメをつけ、責任を取りたいということです」
長嶋は「男としてのケジメ」というところに力を込めた。彼らしい引き際の美学だった。
記者会見を終え、トヨタ・センチュリーに乗り込むと、助手席には長嶋が「先生」と呼ぶ宮本卓(故人)がいた。宮本は、いわゆる“特攻くずれ”で、「我が神州日本は永久に不滅です」という特攻隊員が飛び立つ直前の言葉を叩き台にし、「我が巨人軍は永久に不滅です」という名セリフを考え出した男だった。
宮本は怒っていた。
「Aクラスを確保したら、監督続投のはず。話が違うじゃないか」
監督になって6年目の長嶋だったが、采配のバロメーターとも言うべき1点差ゲームは16勝33敗(勝率3割2分7厘)。巨人OBの重鎮らから火の手が上がり、務台光雄読売新聞社社長(故人)が解任を決断したのであった。
大田区田園調布の自宅に着くと、長男の一茂(当時・中学3年生)が泣きそうな顔で出迎えた。
「頼まれていたシューズだぞ」
宮本は一茂を励ますため、28センチのナイキ製バスケットシューズを買ってきたのである。
長嶋と宮本の酒盛りが始まった。長嶋は現役時代、ビールをコップ1杯飲んだだけで手先から足先まで真っ赤になったが、監督就任後は悩みごとが多く、焼酎をお湯割りで飲むようになっていた。それでも数杯程度だったが、この日は違った。宮崎のそば焼酎「弾」を速いピッチで飲み干した。
中庭では、一茂が真新しいシューズを履き、雄叫びを発しながらラバーが貼られた木を蹴り上げていた。ミスターが“ストレス解消の木”と名付けた樫であった。
「俺は帰るぞ」
焼酎のボトルが空き、宮本が立ち上がると、長嶋は玄関まで追いかけてきた。
「先生、飲み足りないだろ。この酒を持ってってくれ」
珍しい青竹に入った「菊正宗」だった。ところが、長嶋は落としてしまい、長さ50センチの竹の先から酒がこぼれた。すると、それまで耐えに耐えていた長嶋が、感情を爆発させた。
「こんちくしょう!」
大声で叫ぶと、青竹を式台に叩きつけた。驚いた宮本が長嶋の顔を見ると、赤く混濁した目にうっすらと光るものがあった。
松下茂典(ノンフィクションライター)