長嶋と八幡社の結び付きは古い。臼井小学校時代は、毎月1日と15日の参詣が恒例行事だった。午前4時、まだ暗いうちに起きて、星明かりだけを頼りに田圃の畦道を歩く。学校から八幡社までは30分の道のりだった。八幡社に着くと、子供たちは本殿の前に立ち、唱和する。
「目に見えぬ神に向かいて恥じざるは、人の心の誠なりけり」
長嶋の声は、いつもひときわ大きかったという。臼井小学校の木村伊三郎校長が、八幡社の縁戚関係にあったらしく、始まった行事だった。戦時昭和は「皇国日本、神州不滅」の時代である。
根本が思い出す。
「第一次長嶋政権の最終年(1980年)でした。ある日、うちのおやじ(武雄)に電話がかかってきたんです。『八幡様でお祓いしたいから、よろしくお願いします』とね。当時、おやじは八幡社の総代長でしたから、すぐに手配しました。当日は奥さんの亜希子さん(故人)もいっしょでした。なんでも、低迷するチーム状態に悩み、ある人に相談すると、『地元の神社、仏閣を大事にしなさい』と言われ、お祓いに来たんです」
小林も、似たような話を聞いていた。
「あれは現役時代で、巨人V9の半ばごろでした。極端なスランプに陥り、富士の見える伊豆で山ごもりした際、お寺の住職から『先祖のお墓と、生まれた場所の神社を大切にしなさい』と言われたんです。以来、茂雄ちゃんは、それを頑なに守っているんです」
巨人のブルペン捕手だった淡河弘は、1971年から3年間、長嶋の山ごもりに同伴している。
「ミスターは富士の大家と言っていいくらいです。夕食は、大仁ホテルの『富士の間』にある窓を開け放ち、夕映えの赤富士を眺めながら箸を動かすんです。そのとき、1時間ぐらい富士について講釈する。富士は1日に7回色を変えるとかね。まさに“富士博士”でしたよ」
長嶋が大田区田園調布に家を建てたのは、淡河と山ごもりを始めた年である。田園調布に居を定めた理由は、高台にあり、富士を望めることだった。そのため、どの部屋からも富士が見える設計になっていた。
松下茂典(ノンフィクションライター)