4年に1度、全世界の目を釘づけにする栄光の舞台「オリンピック」が間もなく今年もやってくる。しかし、光あるところに影がある。本誌はその影にスポットを当てて、黒い歴史を白日の下にさらしてみたいと思う。ただし読み終わったら、スポーツマンらしくノーサイドだ。
88年ソウル(団体、個人で銅)、92年バルセロナ(団体で銅、個人で銀)と、池谷幸雄氏(41)は2大会連続で2つのメダルを獲得する偉業を成し遂げた。爽やかなルックスも相まって大ブレイクしたのだが、現役引退後は、とにかく波乱万丈の人生を歩むことになったのである。
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92年の五輪後、22歳という若さで体操選手を引退し、みずから志願して芸界へと転身。天真爛漫なキャラクターはバラエティ番組でも人気を集めたが、転身からさほど年月もたたない95年3月、セクシーグループ「ギリギリガールズ」の樹あさ子と、“できちゃった結婚〞を果たしたのだ。まだ24歳だった。当時を振り返って池谷氏が語る。
「早く結婚したいというのは自分の希望だったので、できちゃった婚ですけど、タイミング的に早いという感じはなかったですね」
しかし97年、テレビ朝日の吉元潤子アナとの「不倫朝帰り」を写真週刊誌「フォーカス」にスクープされてしまう。真相をじっくり聞いた。
「あの時点で(夫人と)離婚することは、僕の中で決めていて、夫婦間でそういう話も出ていたんです。吉元さんと出会ったのは、そういう状態の時でした。ところが報道が先に出ちゃったので、向こうにとっては『女ができたから』ということになっちゃいました」
離婚してから報道が出れば丸く収まったであろうが、順番が逆になってしまったというのである。
「そこは大失敗です。慰謝料もいっぱい取られたうえに、大変なことがいっぱい起こりました。全部『フォーカス』が悪いんです(笑)。あの時の記者会見を見てもらえればわかりますけど、『吉元潤子さんを愛しています。遊びではない』と言っていますから。でも離婚話の部分がちゃんと伝わっていなかったから、世間から見ると『何、言ってるんだ』という話になる。結果的にそう見られてしまったのは、しょうがないですね。言い訳するのも男らしくなかったですし」
不倫報道で受けたダメージは大きく、レギュラー番組を降板させられるなど、やがてテレビからフェードアウトしていく。
「27歳の時でしたね。そのゴタゴタを経験していく中で、自分は何をしたいのか、あらためて考え直した時に、やっぱり体操教室を作りたいと思ったんです。そこから教室を開くまで、準備に3年かかりました」
01年に「池谷幸雄体操倶楽部」を設立。その前年に、12歳年上の女性社長と再婚しており、当初は夫人の父親が経営する学校の体育館を間借りしながらの運営だった。しかし、04年にその年上夫人とも離婚。
「体操倶楽部の運営方針の違いが原因でした。彼女は経営者的なスタンスで、僕は指導者や選手の立場を優先して考えてしまう。その後は離婚することで、体育館を出なくてはいけなくなって、自分で借金して体育館を造ったわけです」
05年、池谷氏は自前の体育館を東京・小平市に建設した。
「2億円借りましたから、毎月メチャクチャ赤字でした。そこから6年かかって、今やっとトントンまで持ってきたところです」
池谷幸雄体操倶楽部は現在8校あり、9月には9校目が開設される予定。生徒の中にはオリンピックを目指せる選手も育ってきた。不惑を過ぎ、ようやく体操指導者としての果実が実りつつあるようだ。
起伏に富んだ私生活と比べ、輝かしい五輪の思い出には一点の曇りもないようだが、本人にとっては唯一の心残りがあった。
「バルセロナの時は会場近くに選手用のプライベートビーチがあって、競技を終えたヨーロッパの女子選手たちがトップレスで大騒ぎしていたんです。でも個人でメダルを獲った僕は、マスコミの取材を受けていた。あとから他の選手たちに聞かされて見に行ってみたけど、ビーチには誰もいなくてトップレスは終わっていました。メダルを獲って一番の後悔がソレです(笑)」
再再婚の予定はまだないという。