90年代後半、揺れる国政の中で奮闘する小池百合子が、新たな改革のパートナーに選んだのは小沢一郎。小池は、あらゆる手管を使って「怪しい裏方」という印象が強い小沢のイメージを一新、政治の表舞台へと担ぎ出す。小池の「突破力」は、いよいよ日本を動かしていく!
国民の期待を受けてスタートした細川護熙政権だったが、94年(平成6年)4月8日、細川総理の辞任表明により、あっさり瓦解してしまう。後継は、細川内閣で副総理だった羽田孜だった。
小池百合子は、その羽田政権の命運が今や尽きようという94年6月ごろ、新生党代表幹事の小沢一郎と初めて顔を合わせた。
「日本政治の負遺産をすべて背負っている男」それが小池の、小沢に対するそれまでの印象だった。
小池には、日本新党党首の細川護煕前総理が以前言っていた言葉が妙に引っかかっていた。
「一番頼りになるのは、小沢一郎さんですよ」
小池は、小沢がときおり「お嬢ちゃん」と呼びかけてくるのにムッとしながらも、話に耳を傾けた。
腹の底から沸き立つ、日本の将来を憂う気持ちが伝わってくる。小沢は、小池自身が抱く危機感と同じものを常に抱いて行動している。周りの意見に耳を貸さない強引な政治手法も、その危機感から発していることが十分にわかった。政策的にも「改革」という共通項があった。
小池は、マスコミや新党さきがけから伝わる情報をそのまま受け取り、色眼鏡で小沢を見ていたにすぎなかった。これほどまでに真実の姿をねじまげられている政治家も珍しいのではないか。細川の言った「一番頼りになるのは、小沢一郎」という言葉を、小沢と直に話すことで、初めて理解した。
結局、94年6月30日、羽田内閣は総辞職し、村山内閣が誕生した。小池は、その後、日本新党や新生党などが合流し結成された新進党に参加、小沢と行動を共にしていくことになる。
95年(平成7年)12月、小池が所属する新進党で、党首選が行われることになった。
小池は、羽田政権末期に小沢に会った時から、この人こそ、激動期にリーダーシップをとれる数少ないリーダーだと思っていた。
だが、その小沢は、これまであくまでも黒子に徹していた。「権力の二重構造である」と小沢をやり玉にあげる声も大きかった。
小池は思っていた。
〈それならば、小沢さん自身、いま正々堂々と表舞台に立つべきではないか〉
小池は、沖縄で行われた新進党の大会に小沢と共にゲストとして呼ばれていた際に行動を起こした。
その夜、小池は小沢の秘書の樋高剛に言った。
「小沢幹事長が党首選に出ればいいと、私は考えています」
樋高は、ハッとした。
「小池さんも、そう思われますか」
党内では、小沢が立候補するという議論はまだ出ていなかった。
樋高は続けた。
「私は今から幹事長の部屋に行きますから、一緒にいらしてください」
小池は、樋高と共に小沢の部屋を訪れた。3人で沖縄の名物である泡盛を傾けた。
小池は、小沢の説得にかかった。
「小沢先生は、これまで舞台まわし役ばかりで、陰の人物としての印象が強すぎることは残念だ。この際、堂々と表舞台に立って活躍してほしい。今の新進党、いや日本はあなたを必要としているんです」
小沢は、始めのうちはそんな言葉に取り合うことなく、ニコニコとして聞いているだけだった。が、あまりにも熱い小池の語り口に、次第に真剣な眼差しを向けてきた。
その後、小沢擁立の動きは、新進党内で表面化していく。が、小沢は「出馬するつもりはない」と繰り返し表明し続けていた。
小池は、ついに小沢の事務所に乗りこんだ。
「小沢幹事長の写真を、全部出して!」
泡を食っている秘書たちに後目に、出された写真の中から、ポスターに最もふさわしい写真を選び出した。小沢が党首選に出ることを決めてから、ポスターを用意したのでは間に合わない。刷る前の色校段階にまで仕上げておけば、いつ小沢が出馬表明をしても印刷できる。このまま出ないのであれば、それは廃棄すればいいだけのことだ。小池は、早め早めに手を打った。
大下英治(作家):1944年、広島県生まれ。政治・経済・芸能と幅広いドキュメント小説をメインに執筆、テレビのコメンテーターとしても活躍中。政治家に関する書籍も数多く手がけており、最新刊は「挑戦 小池百合子伝」(河出書房新社)。