小池は、夫と2人で顔を見合わせ、どうすればいいのか途方に暮れていた。
アパートの上の階に住んでいる大家が、部屋に飛びこんできて、一気にまくしたてた。
「電気を消しなさい。水を早く貯めなさい。それから、窓を補強しなさい」
小池は、夫とともに、電気を消し、家にある器という器に水を張った。さらに、言われるままに窓際にあったベッドを壁のほうに移した。窓ガラスという窓ガラスに、青い絵の具を塗りたくった。なるべく外に光が漏れないようにするためである。乾いたのを見計らって、切手のように舐めれば貼ることのできる紙テープを蜂の巣状に張って、窓を補強した。
市民の被害は、敵方の爆撃を直接受けるだけではない。味方が高射砲を放った時の振動でガラスが割れ、けがをしたり、死亡することもある。エジプトの人たちは、日本が敗戦以降平和な日々を過ごしていた28年もの間に経験した3回の戦争で、そのことを熟知していた。
小池らはそれらの準備を終え、近くのスーパーマーケットに急いだ。食糧調達のためである。
ところが、スーパーマーケットに行ってあぜんとした。食糧という食糧は全て売り尽くされ、棚には何もなかった。売っているのは、長靴とタワシだけだった。
2人は、帰り路にバラハという棗椰子の一種を売っている屋台を見つけた。棗椰子は、渋柿のような形で、1キログラムで10粒くらい。それだけ食べれば1日のカロリーがほぼ賄えるので、しこたま買いこんだ。
何とか食糧を手に入れたものの、家に帰る2人の足取りは重かった。
エジプトの人たちにとって、戦争は日常そのものだった。その時が訪れれば、頭で考えなくても運動神経のように身体がすぐに戦時体制に移っている。ところが、自分たちはどうか。
小池は思い知らされた。
〈戦争も知らず、いざという時に動けなくては、世界で生き抜いていけない〉
自分だけではない。それは、アメリカの傘の下でぬくぬくとしている平和漬けの日本人全てに言えることではないか。
その経験が、後に小池をキャスターとして、政治家として、突き動かす1つの原動力となっていく‥‥。
カイロ大学時代の小池を知る佐々木良昭によると、日本の政治家の多くは、ヨーロッパやアメリカに留学している。もちろん、欧米で学べることは多いであろう。が、留学先は非常に安定した環境下にあり、いってみれば「日本の東京」から「アメリカの東京」に移動したような留学生活を送ってきた。
その一方で小池は、弱小国家、貧困国家で異常事態が発生すれば、国内がどのような状態に陥るのかを自ら体験している。
日本の国会議員の中で、果たして何人、自分の肌で危機を感じられる国会議員がいるであろうか。
小池は、カイロ大学で1年留年したものの、その後はとんとん拍子に学年が上がっていった。
一方、アラビア語では小池にも優る日本人留学生の夫は、なかなか学年が上がらなかった。
なぜ差がついてしまうのか、理由は明らかだった。小池は、試験となると、それに全力を傾ける。常に集中力をつけるように、日本から送ってもらったけん玉をしていた。
夫はというと、さまざまなところに目が向いてしまう。アラビア語では小池にも優る夫だが、試験では、留年を続けた。
ある日、夫が小池に言った。
「俺は、大学を辞める。勤めをすることにした。ちょうどサウジアラビアで働かないかと言われているので、そっちの方に行きたいと思う。一緒に来るか」
小池は、突然のことで驚いた。しかし、きっぱりと言い切った。
「私は大学を卒業するのが目的でここまで来たの。結婚が目的ではない。大学を途中で辞めることは予定に入っていないから、ついて行くことはできない」
夫はしばらくして、サウジアラビアに去っていった。こうして2人の結婚生活は、1年足らずで終わった。小池は、自分でも驚くほどあっさりとしていた。
小池は76年(昭和51年)10月、カイロ大学を卒業。日本人留学生としては2人目の快挙であった。
大下英治(作家):1944年、広島県生まれ。政治・経済・芸能と幅広いドキュメント小説をメインに執筆、テレビのコメンテーターとしても活躍中。政治家に関する書籍も数多く手がけており、最新刊は「挑戦 小池百合子伝」(河出書房新社)。