地元尼崎の伝統的な保守派の人たちからは、こんな声が漏れてきた。
「こんな選挙は見たことがない。選挙じゃないみたいだ」
「これは地べたを這うようなドブ板選挙じゃない。本当は、こうじゃないんだ」
旧来の選挙手法に慣れた議員たちから出た苦言であった。
しかし、中山恵子たちのような小池のスタッフたちにも、選挙区選挙の“スタンダード”なるものがわからない。ドブ板選挙をやれ、と言われても、やりようがない。
また、選挙民から小池は「タレント上がり!」とも誹られた。中山の見えないところで、小池はもっとひどい罵詈雑言を浴びていたにちがいない。
が、小池のそれまでにない戦いぶりは、浮動票の多い兵庫2区の有権者の心をつかんだ。
7月18日、小池は衆議院議員に初当選した。獲得票数13万6000票。日本社会党の土井たか子の22万972票に次ぐ、第2位当選であった。
小池は当選が決まるや、声をはずませた。
「組織もお金も無い。無い無い尽くしの選挙で勝てたのは、改革を求める人が起こしてくれた風のおかげ」
日本新党は、この総選挙で一気に35議席を得た。
小池は、衆議院議員となったものの、その余韻にひたる間もなかった。政権交代は目の前に迫っている。
それに新人議員の集まりで、全体の状況を把握できるのは小池のほか、数名しかいなかった。
当時、高輪に移っていた日本新党本部で、時には小池自身が鳴っている電話をとったりもする。それほど人手が足りなかった。スーツなど着ていては、何もできない。髪を振り乱し、ジーンズ姿で、日本新党本部を駆けまわっていた。
過半数を取れなかった自民党に代わって、竹下派分裂を契機に小沢一郎、羽田孜らが自民党を飛び出し結成した新生党、武村正義が率いる新党さきがけをはじめ、野党が政権樹立に向けて相談を始めた。これからの政権がどうなるか。政権の枠組みは、まだ混沌としていた。
そんなある日、自民党の名だたる重鎮議員3人が日本新党本部を訪れた。
自民党としても、政権を死守するために必死だった。だが、細川は小沢一郎が隔離していたため、組織委員長である小池が彼らを迎えることになったのだ。
小池は、ジーンズ姿で対応した。重鎮らは、丁重に書類を出した。政権枠組みのためのメモ書きであり、選挙制度を中心にまとめられた内容であった。
それにしても、政界に入って1年ほどしか経っていないヒヨっ子の小池に頭を下げるのは、彼らにとってかなり悔しい思いだったにちがいない。
小池は、アラブ各国が革命によって政権を樹立した歴史をふり返り、思った。
〈これは革命なんだわ〉
7月29日、社会党、新生党、公明党、日本新党、民社党など八党派が、連立政権樹立で合意した。
「並立制による選挙制度革命」「腐敗防止のための連座制拡大や罰則強化」「公費助成と一体となった産業・団体献金の廃止」それらを柱とし、関連法案を平成5年中に成立させることを確認した。その上で、首相候補として細川を推すこととなった。
8月9日、細川は晴れて首相になった。あっという間に、政権交代が行われてしまったのだ。
〈やっぱり、これは無血革命だ〉
小池は、細川が政権を取るまで切らないでいようと誓った髪の毛を、ようやく切り落とした。
大下英治(作家):1944年、広島県生まれ。政治・経済・芸能と幅広いドキュメント小説をメインに執筆、テレビのコメンテーターとしても活躍中。政治家に関する書籍も数多く手がけており、最新刊は「挑戦 小池百合子伝」(河出書房新社)。