これまで築き上げてきたキャリアをなげうって、小池百合子は新たなる海原──政界を目指すことを決意する。新興政党からの出馬、かつてない選挙運動など、その型破りな行動は周囲を揺さぶり、「日本の政治を変える!」という願いは、瞬く間に結実することとなる!
ニュースキャスターとして成功した小池百合子が政治家へと転身するきっかけは、「日本新党」を結成し、後に総理大臣となる細川護熙元熊本県知事との出会いであった。
1992年(平成4年)5月7日、細川は記者会見を行い、夏の参院選に向けて、「日本新党」を結成することを明らかにした。
この日、細川は、小池がメインキャスターを務めるテレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」にゲストとして出演した。
それから約1週間後、小池は朝日新聞編集委員の伊藤正孝から連絡をもらう。
「ちょっと、細川に会ってやってくれないか」
「日本新党」から参院選への出馬要請にちがいない。小池はきっぱりと断った。
「私は現役のキャスターです。突然番組をやめるわけにはいかない。新党の候補者に、と言われてもお断りですよ」
が、伊藤の執拗な薦めで、小池は仕方なく彼が指定してきた東京プリンスホテルの部屋を訪れた。その部屋で待っていた細川は、小池に「候補者になってほしい」とは一言も言わなかった。
「誰か、候補者がいませんかねえ」
そう言っただけだった。
小池は答えた。
「さあ、探すだけ探してみましょうか」
小池は、知り合いたちに声をかけた。思ったとおり、名乗り出る者はおらず、ついに候補者を1人も紹介できなかった。
小池は、「探すだけ探してみます」と言った手前、無責任な気もしてきた。もう一度考え直した。
細川が訴えている規制緩和や地方分権といった政策は、日本にとって必要なことばかりだ。それなのに、既成政党の政治家たちは口では言うものの、とてもそれらを実現しそうには見えなかった。
〈テレビで叫んでいても変わらないなら、自分でやるしかないかな。政策を決めて実行するのは、国会だもの〉
小池のチャレンジ精神が騒ぎ始めた。
〈候補者を出せない責任もある。この際、私がやるしかないか‥‥〉
参議院選挙公示まであと10日あまりに迫った6月末のある日。何かストンと腹に落ちたように、吹っ切れた小池は決断を下した。
〈やはり、日本新党から立候補しよう!〉
6月29日、細川は記者会見を開き、小池を公認することを発表した。
小池は、立候補の弁を語った。
「大企業のような自民党でなく、お金も無い、無い無い尽くしの日本新党ならやりがいがある。国会では、PKO(国連平和維持活動)協力法で反対か賛成か踏み絵みたいな議論が続き、きちっとした審議がなかった。牛歩戦術にも疑問を感じた」
小池は、立候補することを決めたものの、実際、当選するかどうかはわからなかった。もしかしたら、立候補によって、それまで築きあげたものすべてを失うことになるかもわからない。
〈そうなった時には、またアラブへ行けばいい。やるべきことは、たくさんある〉
それよりも、いわゆる清水の舞台から自分が飛び降りることで風を起こしたかった。
7月8日、参院選が公示された。日本新党の候補者は16人となり、細川が決めた名簿順位も発表された。
当初、細川は選対会議で「私はむしろ、10位くらいのほうがいいのではないか」と言っていたが、周囲から「やはり代表は1位であるべきでしょう」と諭され、1位となった。
そして2位には、メディア界出身で知名度の高い小池が選ばれた。ところが、小池は自ら順位を下げてほしいと申し出た。その場にいた小沢鋭仁などは目を丸くした。普通なら、自分の順位を1つでも上げるようにゴネるところだが、小池の申し出は逆だった。
理由は下位に置かれた女性候補が、順位を不満として、立候補を辞退すると言い出したからだ。小池は女性候補と入れ替えるよう、執行部に申し出ただけでなく、当の女性候補と直接連絡し、入れ替わるから辞退をしないようにと翌朝まで説得を続けた。しかし、最後まで女性候補は首を縦に振ることはなかった。
結局2位の順位で出馬した小池は、公示後、名古屋を皮切りに全国を駆け回った。
大下英治(作家):1944年、広島県生まれ。政治・経済・芸能と幅広いドキュメント小説をメインに執筆、テレビのコメンテーターとしても活躍中。政治家に関する書籍も数多く手がけており、最新刊は「挑戦 小池百合子伝」(河出書房新社)。