二足歩行の人類にとって、進化した豊満な乳房を目にできるのは幸福なことだ。その象徴である有名人たちは、いくつもの歴史的な転換期を創造していた。
故・大橋巨泉に初めて「ボイン」と命名され、偉大なる一歩を踏み出した朝丘雪路(81)は、かつて週刊アサヒ芸能に“その瞬間”を語っている。それは今から半世紀前、67年のことだ。
「一緒に『11PM』(日本テレビ系)の司会をやっていて、ある日、局の廊下で正面からぶつかったの。巨泉さん、私の胸に当たって、とっさに『ボインボイ~ンって感じだね』と言いながら後ろに倒れちゃったの。実際、当時は98センチのFカップあったのよ」
月亭可朝が「嘆きのボイン」を歌い、故・小島功画伯が「ヒゲとボイン」を連載し、完全にボインという言葉が定着した。
やがて70年代、日本初のポルノ女優と命名されたのが池玲子(63)である。東映の作品を中心に98センチの乳房を惜しげもなく披露し、コアな人気を誇った。82年の引退後、一切、姿を見せないのは寂しいかぎりだ。
ドラマの「サインはV」(TBS系)や「傷だらけの天使」(日テレ系)で鮮烈な印象を残した中山麻理(68)もまた、70年代の忘れえぬセクシー女優。ハーフ特有の奔放な肢体は、いくつものハードな濡れ場で輝いた。
三田村邦彦との泥沼の離婚騒動後、コンビニ店員をしているところを13年に報道されている。
そんな70年代、アイドル歌手は「胸が大きくてはいけない」との不文律があった。小柳ルミ子やアグネス・チャンが当時、サラシを巻いて目立たなくさせていたのは知る人ぞ知る話だが、この牙城を破ったのが榊原郁恵(57)である。
あまりにも健康的で、そしてふくよかなDカップのバストは、隠しておいてはもったいないとホリプロは考えた。積極的にグラビアを組み、テレビの水泳大会でも主役に押し込む。
むっちりとしたアイドルに初めて日が当たった形だが、当の郁恵自身は「谷間にレンズの照準を合わせられるのがイヤだった」と、のちに語っている。
80年代に入ると同時に、彗星のごとくシンデレラが現れた。当時、熊本大学の女子大生だった宮崎美子(58)である。無名の宮崎を起用した「ミノルタカメラ」のCMで、木陰で恥ずかしそうに水着に着替える姿が大人気となる。どちらかといえばポッチャリの部類だが、まさしく「今のキミはピカピカに光って」歴史に名をとどめる。
同じ80年には、烏丸せつこ(61)の出現もまた大きな事件だった。グラビアの登竜門である「クラリオンガール」に選ばれると、真ん丸でふっくらした乳房をレイで隠したポスターが衝撃を与える。
のちにイエローキャブを率いて巨乳王国を築く野田義治社長は、そのポスターを「全てのグラビアアイドルの手本」と公言する。
烏丸は15年、週刊アサヒ芸能のインタビューで当時をこう振り返っている。
「日本だけじゃなく、アメリカ版の『PLAYBOY』にも写真が載ったと聞いて驚いたな。ただ、当時のマスコミが『おっぱいおっぱい!』って言うのは、うるさいなと思ったよ」
さらに80年、歌謡界から飛び出したのが河合奈保子(53)である。ヒット曲も数多く、いつも笑顔を絶やさず、そして求められればダイナミックな水着姿を披露した。三拍子も四拍子もそろった完全無欠のアイドルに、今なおラブコールは高まるばかり。
16年に発売された復刻版の写真集は、本人が長らく休業状態であるにもかかわらず、現役のアイドルを凌駕する売れ行きとなった。
そんな80年代の終わりに登場したかとうれいこ(47)は、いよいよ「巨乳」という新語が生まれた代名詞的な存在である。どちらかといえば童顔の部類だが、顔だちに不釣り合いな巨大な乳房がそびえている。
かとう自身はグラビアよりも歌をメインに活動したがっていたが、需要がどちらにあったかは言うまでもない。
最後は「20世紀最強のグラドル」とも「完売クイーン」とも呼ばれた青木裕子(39)だ。B95・W59・H87という完璧すぎるIカップボディは、登場した雑誌をたちまち完売させるという伝説を作った。
11年に結婚して芸能界から離れたが、夫の実家が経営する山形の回転寿司店を直撃した。
「今は子供が1人いて、お店には忙しいランチタイムを中心に、お手伝いをしてくれることもあるよ。子育てをしながらの手伝いなので、週に何回とか何曜日とは決まっていない。でも、本人はすごく元気だよ」
残念ながら青木本人には会えなかったが、あのミラクルボディは今も健在なようである。