熱狂的なファンを多く持つミュージシャンたちは、その言動においても、なかなか突飛なところがある。ステージとは違う一面を切り取ってみよう。
「職業欄はロックンローラーで、ヨロシク」
これは内田裕也が海外を旅する時、出国手続きに必ずそう書くから。タレントでもなければ歌手でもなく、生涯、「ロックンロール」にこだわる。
そんな内田が古巣の六本木を歩く時、拳を握りしめていつもつぶやいている。
「六本木はいつ、どこから敵が来るかわからないから、こうして臨戦態勢だ」
記者が同行した時の実話である。
さて、亡くなった忌野清志郎が「RCサクセション」でブレイクし、日本武道館の公演を超満員で終え、スタッフが「打ち上げはどうしますか?」と聞いた時のこと。
「銭湯の時間があるので帰ります」
意外な現実がそこにあった。この話をテレビで語ったのは大槻ケンヂだが、自身もこんな経験がある。
「カラミはないけど、デビュー後にAVに出たことありましたよ。バンドの月給が3万5000円の頃に、2日間の撮影で4万円くれるって言うから」
カネに転んだ!?
間もなくデビューから40年になろうとするサザンオールスターズの桑田佳祐だが、その歴史がなくなっていた可能性もあった。
「いかりや長介さんから『ドリフに入らないか』と真剣に誘われたんです」
93年のサザンのライブで桑田が明かしている。それはデビュー直後のことだった。
「加藤茶さんが辞めるかもしれないという話があって、お前らもコミックバンドみたいなものだから、代わりにどうだと言われたんです。丁重にお断りさせていただきましたが」
そんな桑田も憧れたフォーク界のプリンスが吉田拓郎だった。70年代前半はコンサート会場で「帰れ!」と野次を飛ばす客も多かったが、拓郎は最大の標的。
「じゃあ、帰ります」
1曲も歌わずに帰るという“抵抗”だった。
拓郎と並ぶ大物が井上陽水だが、再三の紅白歌合戦の出演依頼に、たったひと言だけ断りを入れる。
「恥ずかしいから」
スケジュールうんぬんではなく、恥ずかしいと言い切ってしまうのが陽水流の美学なのかもしれない。
そして陽水に続き、日本のリバプールと呼ばれた博多から次々と新しいアーティストが台頭する。チューリップを率いた財津和夫の音楽的評価は高いが、一方で博多の街ではこうも呼ばれていた。
「財津は引き抜き屋」
温厚に見えるが、理想の音作りのためには、気になるミュージシャンに声をかける。そのため、引き抜かれたバンドは解散、もしくは方向性をガラリと変えてしまうことが多かった。
武田鉄矢が率いた海援隊も、ドラマーを引き抜かれたため編成を変えた。そんな武田は拓郎の「流星」という曲がお気に入りで、高級クラブで歌うと、ホステスたちにこう告げている。
「これは拓郎さんじゃなく俺が作った歌」
他人の歌をも自分のものと信じ込ませてしまう金八先生の話術なり──。
博多組の最後は甲斐よしひろで、甲斐バンドとしてデビューを決めるきっかけになったコンテストの優勝直後、悲劇は起こった。
「カップヌードルをお風呂で作ろう」
優勝の副賞として大量にカップヌードルをもらったが、ホテルの部屋に湯沸かし器がない。それならバスタブに入れて、お湯でいっぺんに──。バスタブが油まみれになり、大目玉を食らったことは言うまでもない。
博多から北海道に飛ぶと、やはり代表は松山千春ということになる。ある後輩アーティストが札幌でライブをやると聞き、千春は宿の手配を申し出た。
「千春さん、大丈夫です。自分で探しますから」
後輩は丁重に断ったが、自分で探したホテルにフロントからメッセージが。
〈北海道で俺に恥をかかせるな〉
北海道全域に情報網があるのか、それは千春からの「恐怖の伝言」であった。ちなみに千春の出身地は足寄町とされているが、実際に生まれたのは栗山町であるというのはあまり知られていない。
最後はカリスマ中のカリスマ・矢沢永吉であるが、前夫人との離婚の際に語った言葉こそ、グレート。
「慰謝料? ポルシェ3台分かな」
YAZAWAが口にするのだから、最高級の3台分に違いない。