小松政夫は植木の付き人を3年ほど務めたが、1度も頭ごなしに怒鳴られたことがない。いつも植木に喜んでもらうことだけを念頭に置き、車の運転にも身の回りの世話にも励んだ。
それでも、ある事情で1度だけ怒鳴られたと明かす。
「これは初めて話すことなんだけど、僕がオヤジのもとから独立することが決まり、そのお祝いにとスーツを仕立ててくれた。小松政夫の芸名もオヤジがつけてくれたものだけど、ネームを入れる段になって、まだ気後れがあったので、本名の松崎雅臣で入れたんです。そしたらオヤジに『お前はもう小松政夫だろ! もう1着、作り直せ』って。まあ、1着はもうかったことになりますが(笑)」
もちろん、植木の真意は「自分の名前に堂々としていろ」である。そんな小松から何代かあとの付き人になったのが、タレントの島崎俊郎である。昭和48年、島崎はまだ18歳の若さだった。
「正確にはクレージー全員を4人の付き人で担当するという形だったんですが、僕が挨拶に行ったら、植木さんたちの目がとんでもなく怖かった。実は、僕の4日前までいた付き人が、メンバー全員の財布を盗んで逃げたからだったんです」
島崎は映画館で「無責任シリーズ」に爆笑していた一ファンだった。憧れの植木を前に、最も気を遣ったのが「出前のタイミング」だったという。
「植木さんは決まって天丼とかけうどん。ところがロケの場合は、進行によっては時間が押してしまうことがよくある。そのタイミングを見ながら電話して、ジャストのタイミングで出前が届くと植木さんに『さすが、京都高校選抜』とほめてくれる。僕がサッカーの選抜選手だったことを持ち上げてくれるんです」
島崎も小松政夫と同様に、1度も理不尽に怒鳴られたことがない。島崎はやがて、クレージーの流れをくむ音楽コントを取り入れた「ヒップアップ」でブレイク。さらに島崎個人としても「アダモちゃん」が有名だが、ここにも植木の影響があるという。
「植木さんは静かで常識人の面があるから、逆に『無責任男』でパーンとはじけることができる。僕も根はまじめな性格なので、自分の出番直前にスイッチを入れて『アダモちゃん』に吹っ切ったところはありました」
さて植木は、クレージーのメンバーの中でも、谷啓と犬塚弘には特別に目をかけていた。クレージーとしての活動がほとんどなくなった時期も、舞台に専念していた犬塚の公演には必ず顔を見せたという。
「舞台が終わると楽屋にやって来て、僕の本名の『おい、ひろむ!』と呼んでから『最後のカーテンコール、あれはないぞ』と言うんです。お前が主役なんだから、もっと両手を広げて、右足を引いて、膝を曲げてお客さんにアピールしろと。あれを聞いた時『ああ、兄貴だ』と思ったね。いつでも僕のことを見てくれている愛情を感じた」
3月23日で87歳になる犬塚は、植木の思い出を語りながら、こらえきれずに嗚咽を洩らす。激動の戦後芸能史を生きてきた者だけが知る絆がそこにある。
そして20年の東京五輪を前に、植木の豪快な笑い声がイメージキャラクターとして、たびたびCMから流れてくる。特集上映や記念展示会も相次ぐなど、稀代のコメディアンの残像は、「さあ一丁、ブワァーッと」輝きを増すばかりである。