コメディアンの小松政夫は、全国トップの売り上げを誇る車のセールスマンだった。現在の金額で月収100万円は下らなかったが、その収入を捨てて、大好きな植木等の付き人になった。昭和39年、植木とクレージーの人気が頂点に達していた頃である。
「テレビのレギュラーが4本に、主演の映画があって、日劇の公演もある。オヤジ(植木等)の1週間の睡眠時間は10時間で、徹夜、3時間、徹夜、徹夜、4時間、徹夜、3時間というようなサイクルだったね」
それでも植木のもとには仕事のオファーが絶えない。小松は、さすがに温厚な植木がキレた瞬間を見た。
「ちょうどナベプロの近くで映画のロケがあった日のこと。マネージャーが仕事のオファーを断りつつ、ノートを見て『あっ、この日の夜中1時から朝6時までなら空いてます』と言っちゃった。オヤジがツカツカと寄ってきて、誰かのスケジュール帳でマネージャーの頭をパチーンと叩いて『バカヤロー、そこは寝る時間だ!』って(笑)」
テレビの草創期であり、映画の観客動員も多い時代だった。植木は、その両方のメディアに君臨するスターとして、殺人的なスケジュールに追われてしまうことになる。
そしてついに体が悲鳴を上げ、昭和39年には過労で入院。それでも公開日が決まっている映画の撮影は容赦なく、植木は病院を抜け出して撮影に参加。
控え室の長椅子に体を横たえていると、プロデューサーたちの会話が聞こえた。
「植木がまた倒れたらどうする?」
「代わりを見つければいいさ」
植木等の代わりなど日本中どこを探してもいないだろうが、植木の胸に、ある覚悟が宿る。犬塚弘らメンバーの前で「自分たちに“もしものこと”があっても、周りはそんなもの」と言ったあと、宣言をする。
「俺たち、どんな仕事をして、どれだけ頑張ったか、それだけは覚えておこうよ」
植木自身は「無責任男」とは距離を置いているが、常に「植木等としての仕事」にはこだわりを持つようになった。
TBSの演出家だった砂田実は、局にとらわれず、植木とさまざまな場所で仕事をともにした。
「僕の中学の同級生に青島幸男と、フジのディレクター・すぎやまこういちがいて、TBSの社員でありながら『おとなの漫画』の台本もこっそり書いていたよ。それでクレージーの連中とも顔なじみになった」
砂田は、CMの演出もいくつか手掛けていた。代表作が昭和38年に植木を起用して流行語になった「なんである、アイデアル」だろう。
「植木さんの家に行って、あれこれCMプランを練っていたんです。あのCMは5秒スポットという短い枠だから『何だろうねえ‥‥アイデアル』なんて言ってたら植木さんが『なんである、アイデアル』と口にして、それがセリフになった」
アイデアルの洋傘は飛ぶように売れ、砂田は植木とともにスポンサーである丸定商店の社長室に呼ばれた。植木に手渡された金一封は、100万円はあったという。
さらに砂田は、本来のTBSの社員として昭和42年に「植木等ショー」を担当。歌や踊り、ゲストとのトークを見せる上質のバラエティ番組だが、鶴田浩二をゲストに招いた回は視聴率が37%を記録した。
「そのお祝いにと植木さんが日本橋三越の時計売り場に連れてってくれてね。どれでも好きなものを選んでいいよと。そうは言われても、高すぎても安すぎてもダメだから、ちょうど真ん中あたりの2万円の時計を選んで」
砂田は植木の晩年にも番組を作り、植木から「俺の節目には砂ちゃんがいつもいてくれた」と言われたことが誇りであった。