今年の夏の甲子園の開幕試合となった波佐見(長崎)との一戦でみごと逆転サヨナラ勝ちを収め、2回戦進出を決めた彦根東(滋賀)。この勝利は同校が50年の第22回春の選抜大会に初出場を果たして以来、春夏通算5回目の出場であげた甲子園初勝利だった。実に67年越しの悲願。それだけにOB含む学校関係者の喜びもひとしおだったのではないだろうか。
実はこの滋賀県は、夏の甲子園大会において、47都道府県の中で初勝利をあげるのがいちばん遅かった県でもある。それは滋賀県代表が夏の甲子園で初戦敗退を重ねていたからという理由だけではなかった。というのも、かつて夏の甲子園は現在のような1県1代表制ではなかった。高校の数が少ない隣県同士が組み合わされ、県大会で優勝したチームによる地区代表決定戦が行われていたのだ。
他にも、例えば奈良県代表と和歌山県代表が戦っていた紀和大会などがあり、滋賀県代表も京都府代表と予選の最後に夏の甲子園出場をかけた京滋大会という地区代表決定戦で最後の甲子園切符を争っていたのである。
だが、当時の京都といえば平安(現・龍谷大平安)や京都商(現・京都学園)といった名門校がずば抜けた実力を誇っていたため、滋賀県のチームは県大会で優勝しても、代表決定戦でことごとく京都代表チームに苦杯を喫するハメになり、夏の甲子園への道はなかなかの確率で厳しかった。5年ごとに行われる記念大会では1県1代表を送り込めたが、それ以外の年ではわずか3校、1915年の第1回大会から78年の第60回大会(この年から今のような北海道と東京を除く1県1代表制が定着した)まで数えても甲子園へ送り込めたのはたったの9回しかなかった。
そんな滋賀県勢待望の白星を挙げたのが79年の第61回大会に出場した比叡山だったのである。初戦で釧路工(北北海道)に12‐4で勝ち、連続初戦敗退記録も9でストップ。同時にこれで夏の甲子園における未勝利県が消えることとなったのだった。滋賀県勢にとっては53年に県勢として夏の甲子園に初出場した八日市が金沢泉丘(石川)に1‐4で初戦敗退してから、実に26年越しでの悲願達成だった(春の選抜ではすでに57年の第29回大会で八幡商が県勢初勝利からのベスト8入りを決めていた)。なお、比叡山はこの初勝利の余勢を駆ってこの大会、ベスト8まで進出している。当然ながら夏の甲子園では県勢初のベスト8。この時、甲子園初勝利はあげていたものの、準々決勝進出経験のなかった山形県を一気に抜いての待望のベスト8入りとなったのであった。
(高校野球評論家・上杉純也)