栄光の50年は“Mr.オールナイトニッポン”こと、笑福亭鶴光(69)とともにあり。今では当たり前の「関西弁」を武器にした先駆者でもあった。
鶴光 わんばんこ! 鶴光でおま。ええか、ええか、ええのんか~。
──いよっ、名調子! ついでに女性リスナーに対しての第一声を。
鶴光 乳頭の色は?
──堂々と「乳頭の色」と聞いて、それに「ピンク」と明るく答えるノリを作ったのはみごとです。
鶴光 74年から出ることになったんやけど、それまで関東では誰もやってなかった「こてこての大阪弁」でやろうやないかと。上方落語の言い回しの「なんだんねん」とか「~でおま」とかね。
──師匠の落語家デビューと同じ50年の歴史を持つ番組ですが、これほど人気になると思いましたか?
鶴光 いやいや、全然。土曜日の1時から4時間の長丁場やったけど、ハガキは毎週1万通くらい来て、占拠率は90%超えてたって聞くとビックリするね。
──読者世代もハガキを送ったリスナーは多数いたと思います。エロ話っぽく見せかけて最後にオチがある「ミッドナイトストーリー」や、怪談話に見立てたダジャレの「驚き桃の木ビックリ話」など。
鶴光 最初からこうしようと言うてたんでなく、最初は「小噺その1」みたいな感じやったけど、リスナーがそれぞれコーナーを作っていく流れやったね。そこから「なんちゃっておじさん」の大ブームが生まれたりや。
──ありましたね、今で言う都市伝説的な。
鶴光 北海道にはこんな変わったおっちゃんがおるとか目撃談が続いて、その総称が「なんちゃっておじさん」になっていった。
──今の時代はSNSになるんでしょうけど、昭和の時代は間違いなく深夜ラジオが「情報の発信源」として威力を発揮しました。
鶴光 番組が終わって、博多へ向かう時に「明太子が食いたいなあ」と言うと、博多駅に100人くらい明太子を持って待っとったもんね。それはええねんけど、番組明けの朝6時の新幹線に乗って、さあ寝よかいう時に「鶴光様、お電話です」って呼び出しが入る。誰や思うたらファンの少年で「さっきまで聴いてました。次の仕事も頑張ってください」やて。そんな電話せんと寝かせんかい(笑)。
──それにしても、AVもない当時の青少年にとって、あの番組自体が持つ「イロっぽさ」は出色。
鶴光 例えば電話口の女性リスナーを、まず深呼吸させてみるというのは手やったな。夜中にこっそりラジオの前やと、女の呼吸音は悩ましく聴こえるんや。
──なるほど、そこから「注射は?」とか「乳頭の色は?」と、たたみかけていくわけですね。さて、師匠の番組には若い女性アイドルが多数、出演しました。
鶴光 新人はレコードかけてほしいんやけど、簡単には流させん。真夜中の運動会ゆうて、青山墓地に置いてある自分のレコードを取って来たらOKとか。もちろん、スタッフが幽霊のカッコしとるから完全に「肝試し企画」やな。
──こうしたアイドルいじりで伝説になったのが、松本明子に「オ〇ンコ!」と叫ばせた84年の一件。師匠の番組の10周年を祝して、フジの「オールナイトフジ」と合同の中継でしたね。
鶴光 松本明子は番組のアシスタントやったんやけど、彼氏の名前を言えと。それはイヤだというんで、それやったら、カメラに向かって「オ〇ンコ」と叫べと。彼女は四国の香川出身やから、その四文字が何のことかわからず言うてしもたんや。しかも、その瞬間に限ってカメラがアップに寄ってきとる。時間が止まるとはこのことで、ほんまにスタジオが凍りついた(笑)。
──松本明子がテレビをしばらく干されたのは有名ですが、師匠にも影響は?
鶴光 そらあったよ。新人アイドルに「ええか、ええのんか~」って言って触るフリするから、事務所から軒並み「共演NG」を食らったよ。
──11年9カ月という当時の最長記録ですが、記憶しているエピソードは?
鶴光 いつだかの8月に、放送中にごっつい地震が来よってな。ラジオやからマニュアルがあって、ディレクターが3回、大きな声で読めと。それに「ストーブの火は消してください」いうのもあったけど、あとでリスナーから「8月のクソ暑い日にストーブって、なんや、アホ!」って。こっちは読め言われたんじゃ!
──ラジオならでは(笑)。
鶴光 今年からCSのJ:COMで「オールナイトニッポン・TV@J:COM」やってますので、観てくださいな。