アバンギャルドな放送スタイルゆえ、ラジオの枠にとどまらず、世の中すらも震撼させた「事件」は数多い。真夜中に撃鉄が落とされた瞬間をプレイバック!
〈北京で始まった/大相撲九州場所で/牝馬の/横綱輪島が/後ろから棒のようなもので頭を‥‥〉
NHKのいろいろなニュースをつなぎ合わせたのが、タモリ(72)が80年に始めた「NHKつぎはぎニュース」のコーナー。淡々と原稿を読むNHKアナウンサーと、まるで脈絡のない順番が大ウケした。
ところが──黙っていなかったのが当のNHKである。人気コーナーでありながら、NHKの猛抗議を受けて、わずか3カ月で幻と消えてしまった‥‥。
タモリに続いて番組の顔になったのはビートたけし(70)だ。多くの信者が熱狂するカリスマ的人気を博したが、それゆえの騒動が起きたのは90年のこと。
この日、急病で欠席したたけしの代役を務めたのは、売り出し中の爆笑問題。太田光(52)は冒頭で“たけしイズム”を込めて切り出す。
「ビートたけしは死にました。この枠は俺らがもらった。ざまーみろ、浅草キッド。悔しかったら今から来やがれ」
生中継を聴いていた水道橋博士(55)は局に乗り込み、太田もまた「ニッポン放送への出入り禁止」が長く続くことになる一幕であった。
さて番組には、あらゆるジャンルの有名人がパーソナリティとして参加したが、最も異色なのは「ヒゲの殿下」の愛称で親しまれた三笠宮寛仁親王(享年66)だ。75年10月28日、スペシャルパーソナリティとして登場すると、1人で2時間の生放送を乗り切る。
殿下は初恋談議や青春時代の思い出、皇室の紹介からギターの弾き語りまで多彩にこなす。皇族が深夜放送に生出演するという異例の事態は、大きな話題となった。
殿下ほどではないが、当時は前例がなかった「女性アイドルのレギュラーパーソナリティ」に風穴をあけたのが小泉今日子(51)。初登場した86年はバリバリのアイドル期であり、そのため、放送後にはバイクや車で追跡するファンが多数。
「あんたたち、いいかげんにしなさいよ!」
キョンキョンは追っかけに向けて一喝したこともあったという。ちなみに笑福亭鶴光の番組には新人時代に出演しているが、どっきりの仕掛けに腹を立て「二度と出ない!」と叫び、席を立ったという武勇伝も残している。
そして50年の歴史でもトップクラスの事件が、吉田拓郎(71)の「死亡騒動事件」とされる。81年3月13日のことだった。
その一件の前に、75年9月に起きたトラブルも紹介しておこう。拓郎(当時はよしだたくろう表記)は、最初の夫人との離婚がささやかれ、また浅田美代子との仲も発覚。そのため、収録には多数の芸能レポーターが駆けつけた。
「離婚することになりました」
拓郎はレポーターではなく、生放送で全国のファンに報告。当時は記者会見以外の離婚発表という前例がなく、レポーター陣は激怒。局を出る拓郎に罵声を浴びせ、拓郎も「あんたら、地獄に行くよ」と応酬。
結局、この日をもって降板を余儀なくされた。
それから5年半後、2度目の番組登板となったが、高熱で欠席した日に事件は起きた。代役を局の塚越孝アナが務め、渡された台本には「特別番組 吉田拓郎を偲んで」とある。
まるで追悼番組のような暗い構成に、ファンや報道陣からも問い合わせが殺到。30分後には架空の企画であることを釈明したが、拓郎の家に電話をかけると、浅田美代子夫人(当時)が「うちの主人を殺さないでください」と激怒する一幕も。もちろん、新聞紙上でも「人の生死をジョークにするな」と激しいバッシングを浴びるハメになった。
さて、番組にどっきり的な要素は付き物だが、とんねるずの2人でさえも固まってしまった瞬間がある。86年5月29日、スタッフは箝口令を敷いて「この日のゲスト」を隠した。
そして深夜1時、石橋貴明(55)と木梨憲武(55)の前に現れたのは、歌謡界の女王・美空ひばりである。トップシークレットとしたのは、ひばり側のアイデアだったようだが、2人は驚きの声を上げるばかりであった。
最後は、たった4回の放送で幕を閉じたhide(享年33)だ。98年4月10日にパーソナリティとなり、第4回目は5月2日午前5時に終了。
「また来週」
それが最後の言葉であり、オンエアの数時間後に謎の死を遂げた。永遠に訪れることのない「また来週」であった──。