社員中心だったパーソナリティがタレントに門戸を開き、一気に華やいだ73年。その先兵となったのは、デビュー間もない「あのねのね」で、原田伸郎(66)は「ラジオの革命だった」と豪語する。
──「赤とんぼの唄」でデビューしたのが73年3月、その4カ月後の7月にはパーソナリティに抜擢されていますね。
原田 京都から清水国明さんと上京して、渡辺プロのオーディションを兼ねて有楽町のライブハウスで歌ったんです。渡辺晋社長も来ていて、ずっと盛り上がっていたけど、最後に「アホの唄」を歌ったのがアカンやった。
──と言うと?
原田 当時の東京の人は関西弁になじみがなく、アホって言うとバカの数十倍、屈辱的に聞こえる。怒ったお客さんと清水さんがケンカになって、結局、渡辺プロ入りはお流れ。けど、ニッポン放送の人が何人か来ていて「これはおもしろそうだ」と。
──ああ、なるほど。有楽町というホームタウンでもありますし。そして番組はギャグソング同様に、当時のラジオでは考えられない珍企画がめじろ押し。
原田 毎週、スタジオに行くのが楽しみやった。ディレクターはいつも始末書を用意していたけど、僕らには「おもろいことやれ」と。「謝るのは俺らがやるから」と言ってくれて。ええ時代でした。今ならディレクターのほうから「これはできません」ってストップさせられるもんなあ(笑)。
──では、歴史に残る場面をいくつか紹介していきましょうか。まずは「始発の山手線大パニック」ですが。
原田 ああ、番組で「始発の山手線に乗って朝の光景が見たい」と口走ったヤツね。そしたら番組終わりでリスナーが次々と乗り込んできて。
──記録では電車内がパンパンになり、あちこちで窓ガラスが割れたと。
原田 今やったら、その瞬間に打ち切りになるね(笑)。当時は「時報クイズ」いうコーナーもあって、リスナーに「ホンダのナナハンをプレゼント」と言って、実際は「本田と彫られたハンコが7本」でホンダのナナハン。それと「グアム島の旅」はガムが10個に足袋を添えて「ガムトオのタビや」と言うたりね。それでリスナーも「ああ、やられた~」で済んでたから。
──今なら即、ネットで炎上しそうですね。それと、ラジオの特性を生かして、放送中に電話をかける企画も多かった。
原田 あったねえ、警視庁に電話をかけて「これからスケベなことしゃべりますんで、逮捕してください」という自首電話。電話の向こうでクスクスと笑って、逮捕してくれなかったよ。あっ、そうそう、アメリカのロッキード社にも電話した。しかもロッキード事件(76年)の直後くらいに。
──それはまた大胆な!
原田 構成作家にのちの直木賞作家の景山民夫ちゃんがいて、彼は英語が堪能だから「ニッポンにはあのねのねというスーパースターがいる」と。それで「移動のために小型飛行機を買いたい。ついてはカタログを送ってくれ」というとこまでいったんや。ところが、事件の渦中に何をやっていると、局内で大問題になってジ・エンド(笑)。
──その後の「元気が出るテレビ」(日本テレビ系)など過激番組のひな型になっていますね。
原田 まだ高校生だった石橋貴明くんが「弟子にしてください」って言ってきたくらい、刺激的だったんやろうね。おもろいラジオがやれて、いい時代でした。
──ちなみに、この10月は番組の50周年マンスリーですが‥‥。
原田 僕らは何するかわからんから、呼んでもらえんやろなあ(笑)。
──同感です(笑)。