100年を数える日本の映画史で、深作欣二ほど多彩に、そして精力的にヒットを量産した監督もいないだろう。間もなく壮絶な死から10年を迎えるが、今なお革命作「仁義なき戦い」は燦然と輝いている。さらに時代劇や文芸路線においても激情ほとばしった“深作流”は、今も男たちの、胸をまさぐるのだ──。
〈そっちこそ山守を殺(と)る殺る言うとって、殺れやせんじゃないの〉
子役時代を経て、72年から大人の俳優として活動を再開した風間杜夫(63)は、そんなセリフをそらんじられるほどスクリーンを仰視した。73年1月13日に第1作が公開された「仁義なき戦い」(東映)の3作目で、主役の広能昌三(菅原文太)に向かい、武田明(小林旭)が電話で仕掛ける場面だ。さらに──、
〈山守さん‥‥弾はまだ残っとるがよォ〉
盃を受けた渡世の親・山守義雄(金子信雄)に対し、広能が銃口を向ける衝撃のエンディング。早稲田大学入学と同時に演劇を始めた平田満(59)もまた、安い二番館や三番館を中心に「仁義なき戦い」の熱を浴びた。当時の若者なら、誰もがその洗礼を受けただろうと平田は言うのだ。
かつて「任侠映画」で隆盛を誇った東映だったが、時代の波とともに衰退を強いられる。そこに颯爽と登場したのが「仁義なき戦い」であり、これまで不遇の時期が続いた監督・深作欣二が主役に躍り出た。
深作は03年1月12日に前立腺ガンの脊髄転移により72年の生涯を閉じたが、来年には奇しくも「仁義──」の公開40周年と1日違いで、没後10年という節目を迎える。風間は、深作の演出がどれほど衝撃的だったのかを口にする。
「手持ちカメラを多用し、ドキュメントタッチに徹した映像がリアルだった。それに『ピラニア軍団』に代表される脇役たちの躍動感も従来にはなかった」
そんな“観客”の目から、風間も平田も「監督と主要キャスト」の関係に格上げされる。82年に公開され、その年の映画賞を総なめにした「蒲田行進曲」(松竹)である。
2人にとって師であるつかこうへいの原作をもとに、映画界を席巻していた角川春樹によって待望の映画化となった。もっとも、そこには数々の紆余曲折があった。角川は当初、東映の岡田茂社長のもとへ企画を持って行くが「当たらん」の一言で門前払い。そこで表題の由来(老舗の蒲田撮影所)である松竹に行き、角川映画として初めて松竹と手を組むことになる。
そして制作が決まり、主要キャストが新聞紙上で発表されたのだが‥‥、
〈銀ちゃんに松田優作、ヤスに宇崎竜童、小夏に松坂慶子〉
つか劇団の舞台では風間が「銀ちゃん」を、柄本明が「ヤス」を、平田は別の役を演じていたが、世間的には無名ということもあり、映画では見送られた。ところが、松田優作が辞退したため、人選は振り出しに戻った。クランクインの直前、風間はつかに呼ばれ、深作の京都の定宿で麻雀を囲んだ。
「その翌朝ですよ、つかさんに『銀ちゃんはお前がやるから』って言われたのは。同時に『お前の人生が変わるぞ』とも言われました」
平田は自分たちの舞台を深作が観に来た日のことを思い起こした。
「監督の映画は手持ちカメラのブレに代表されるようにエネルギーがすごいけど、僕らの舞台にも『仁義──』と同じものを感じたのかもしれません。少なくとも体力はありそうだなと思われたようですね」
無名の2人が、すでに大スターである松坂慶子を挟む形で幕が開いた。