戦隊シリーズの助監督などを経て、健太が父のもとで作業するようになったのは93年のこと。ドラマの「阿部一族」(95年/フジテレビ)と、大ヒットした「忠臣蔵外伝 四谷怪談」(94年/松竹)の現場に、助監督的な立場で参加する。
「親子であることのやりにくさは一切なかった。監督業というのは孤独な作業だけど、オヤジは僕がいると一緒にメシを食ったり、祇園に行って飲みながらバカ話ができると思ったんでしょう」
緩衝材としてだけでなく、映画人の家系に育った健太は、自身のアイデアも気後れせずに提案する。例えば「忠臣蔵外伝─」のクライマックスで印象的なマーラーの交響曲「巨人」は、健太の選曲である。
こうした共同作業を経て、ついに「脚本家・プロデューサー」という大役で父と向き合ったのが「バトル・ロワイアル」だった。
近未来の日本は壊れかけた国になっており、年に1クラス、15歳の中学生が最後の1人になるまで互いに殺し合うという「BR法」が国家により制定された。このミッションを生徒たちに伝える「教師キタノ」を誰にするか─、
「僕も父もビートたけしさんしか考えられなかった。そしたら二つ返事で引き受けていただいて、このキタノを軸に据えるなら、42人の生徒たちは新人でいいじゃないかとなったんです」
有名な話だが、北野武の監督第1作「その男、凶暴につき」(89年/松竹富士)は深作が撮る予定だった。ところが多忙なたけしとスケジュールが合わず、結果的に「北野武監督」を誕生させている。そんな両者が待望の初顔合わせとなったが、深作は42人の若者たちとも真摯に向かい合った。全員の名前と役名を頭に叩き入れ、1人1人を呼んで演技指導をした。
「オヤジが大事にするのはコミュニケーション力。当初は生徒役に小栗旬くんも候補に入っていたけど、帽子を目深にかぶったまま向き合おうとしない。深作流の演出としては見送らざるをえなかった」
やがて過酷な撮影が進むにつれ、父子の間に壮絶なバトルが展開されていく。例えば主演の七原秋也(藤原竜也)は、最後までクラスの仲間と殺し合うことなく、中川典子(前田亜季)とともに逃げ延びる。この役柄に対して、深作がしびれを切らす。
「どうにも七原の役に感情移入ができないんだよ」
さらに深作は、冷酷に仲間を討っていく相馬光子(柴咲コウ)への肩入れを見せる。
「むしろ彼女を主人公に持っていけないだろうか」
プロデューサーとして、脚本の書き手として健太は猛反対した。その監督案では観客が納得しないだろうと異を唱えた。
「息子が生まれて初めてオヤジに牙をむいて驚いたと思います。予算ひとつ、セリフひとつ取っても衝突だらけでしたよ。キャストに当てはめれば、オヤジは教師キタノの目線であるだろうし、僕は七原の目線になっていくんですよね」
それでも、生徒の1人1人が死ぬたびに出席番号と名前のテロップが入る手法は「仁義なき戦い」を想起させる。これは健太のアイデアだったそうだが、初めての本格的な父子タッグは興行収入31億円という大成功に終わった。