監督・深作欣二の名声を高めただけではない。東映という会社を、主役からワキに至る役者たちを、あるいは日本中の男たちの運命すらも変えてしまった“熱塊”の映画──それが「仁義なき戦い」である。公開から40年、そして深作が世を去って10年がたとうとも、その魅力はギラギラと輝くばかりだ。
「これはぜひ俺にやらせてくれ! こんなすばらしい脚本はないよ」
東映のプロデューサー・日下部五朗のもとへ、深作欣二は息せき切って駆けつけた。完成したシナリオを東京へ送ってから、わずか2日後には京都へやって来たのだ。
そのシナリオは稀代の脚本家である笠原和夫によって書かれた。日下部と笠原が別件で作家・飯干晃一の家へ寄ったところ、美能幸三元組長の獄中手記を見せられた。実際に起きた「広島ヤクザ戦争」が当事者によって克明に描写され、飯干は手記をもとに週刊誌で連載を始めるという。
一読した日下部は興奮を抑えきれず聞いた。
「これ、連載のタイトルは何ていうんですか?」
「ああ、『仁義なき戦い』っていうんや」
──この瞬間、日本の映画史に燦然と輝「仁義なき戦い」(73年/東映)が一気に鳴動する。
日下部は初の自伝「シネマの極道」(新潮社刊/12月21日発売)を書き終えたばかりだが、長いプロデューサー人生の中でも「仁義──」は格別だった。
「これは画期的な題材になると思ったし、笠原さんの脚本も生涯作品で突出したレベルだった。これにサクさんが『ぜひやりたい』と言い、菅原文太も『これは俺しかいない』と手をあげてくれた。映画は、そこまで入れ込んでくれる人じゃないと成功しませんから」
実は深作以外の監督や、主演俳優にも渡哲也や松方弘樹の名が候補にあがったが、日下部は当初の予定どおりに2人を軸とする。脚本の笠原は「あいつはシナリオをいじりまくる」と難色を示したが、深作は一切、手を入れないことを約束した。
当時の東映は、日本の映画人口が激減していることに加え、長らくドル箱だった「任侠路線」が頭打ちとなっていた。そこに新機軸として白羽の矢が立ったのが「実録路線」だったのである。
深作はこれまで大きなヒット作はなかったが、テンポのいい演出やバイオレンスの描き方に定評があった。同じ東映でも新興の東京撮影所にいた深作が、初めて老舗の京都撮影所に乗り込んだ形である。
「僕もプロデューサーとして初めてサクさんと組んだけど、役の作り方なんかはさすがだと思った。これに役者たちが期待以上の芝居をしてくれて、情熱にあふれた映画になったよね」
以来、日下部は時代劇復興の「柳生一族の陰謀」(78年/東映)など、節目ごとに深作を立てた。そこには、深作と同じく「様式美の破壊」で意見が一致した。
「サクさんも『柳生一族──』が初めての時代劇だったけど、今までの義理人情じゃなく、実録タッチでやろうよと。要は『仁義なき戦いの時代劇版』でいいじゃないかと。最後に徳川家光のクビが取られるなんて史実にはない大ウソだけど、それを撮れるのが深作欣二だったんだ」
そして斬新な試みは東映に莫大な利益をもたらすこととなった‥‥。