女優・森光子が92歳でその生涯に幕を閉じた。晩年は舞台「放浪記」で国民栄誉賞まで受賞したが、それまでの道のりは決して平坦ではなかった。親交が深かったジャニーズの面々も知らなかったであろう波乱万丈の「裏放浪記」を、ゆかりの深い人たちの証言で振り返る─。
「本当に残念で寂しく思います。あんなに華奢でしたが、内側からにじみ出てくる強さは、自分の知る役者さんの中でも随一。いつも『舞台は戦場ですから』と話されていました」
と語るのは、女優・浜木綿子(77)だ。浜といえば、11月10日に永眠した森光子が生涯を賭けて演じ続けた舞台「放浪記」の初演から、再々演まで共演した“戦友”だ。
森は、東宝の取締役だった菊田一夫氏に見初められ、大阪から38歳で上京。ところが、すぐには女優として芽が出ず、41歳になってようやく抜擢されたのが、のちに森の代名詞となる「放浪記」だった。
浜が当時を述懐する。
「初演当初、『この舞台も1、2回で終わりよね。でも、努力していれば、いつか報われる日が来る。誰がどこで見ているかわからないもの』と話されていました」
だが、結果的に「放浪記」は通算2017回という、森にとってのライフワークとなった。
白坂五郎役で長年、共演してきた米倉斉加年(78)も驚きを隠さない。
「この作品は、森さんが(体力のある)若い頃にできた作品ですから、セリフは多いし、衣装替えが何度もあります。しかし、森さんはいつでも小走りで軽やかでした。自分に厳しい方で、80歳を過ぎても開演5時間前には劇場に入られていました」
しかし、「大女優」と呼ばれるようになってからも、森は決して威張るようなことはなく、後輩役者のよきアドバイザーとして、言葉をかけた。83年から11年間にわたって共演してきた大場久美子(52)も感銘を受けた一人だ。
「この作品に出させていただいた頃の私は、『背も低いし、声の質も舞台向きではない』とバッシングを受けていました。しかし、お母さん(森)は、『女優は身長ではなく存在感よ』『舞台の通る声は、大きい声じゃないんですよ』と励ましてくださいました」
前出・米倉にも忘れられない言葉がある。
「07年の舞台『寝坊な豆腐屋』で、私がセリフを忘れてしまい、お詫びをした時のことです。森さんは『米倉さん、恐れてはいけませんよ。明日は必ず来ます。私は毎日忘れています』と励ましてくれました。私は70過ぎまでセリフを忘れたことはありませんでしたが、時間や老いは容赦なく役者を襲います。セリフは(頭に)入らなくなり、体も動かなくなる。役者はその恐怖と戦わなくてはならない。森さんはそんなことを微塵も感じさせないところがすごいのですが、裏には計り知れない努力があったと思います」
晩年の森の舞台には、シルバー世代が数多く詰めかけた。その理由は、年齢を重ねても若々しい森の演技が、憧れの存在として投影されていたからに他ならない。
が、芸能レポーターの石川敏男氏によれば、老いに対する思わぬ本音を口にすることがあったという。
「『放浪記』の舞台が通算2000回を達成する前年の08年のことです。私が森さんに『いよいよ2000回ですね』と聞くと、『石川さん、本当に2000回できると思ってらっしゃいます?』と聞き返され驚きました。世間は簡単に2000回と言うけれど、体力が落ち、気弱になっている自覚はあったはず。ちょうど、その年に最愛の実妹を亡くされ、相当ショックを受けていましたから。でも、それをはねのけ、みごとに期待に応える。それが森さんでした」
常に女優としての矜持を持って現場に臨んでいた森の姿が浮かんでくる。