春夏の甲子園を通じて唯一、沖縄本島以外の島から出場し、優勝したチームがある。1953年第25回大会で兵庫県の淡路島から出場して優勝を果たした洲本である。当時、県内では育英や滝川、芦屋(現在は廃校)などが覇権を争っていただけに大きな注目を浴びることになった。
エース・北口勝啓(明電舎)とキャッチャーで主砲の加藤昌利(元・近鉄)を中心としたチームで春夏通じて甲子園に初出場した洲本は、初戦は強豪の中京商(現・中京大中京=愛知)と対戦する。この時の相手エースがのちにプロ野球・中日ドラゴンズで活躍する中山俊丈だけに、初陣の洲本は当然のように負け戦覚悟であった。ところが何とエース・北口が好投し、7回裏に打線がもぎとった2点を死守。中京商を3安打で完封してしまったのだ。準々決勝でも豊橋時習館(現・時習館=愛知)相手に北口が3安打完封を決め、1‐0。準決勝では夏の選手権で連覇したこともある強豪・小倉(福岡)が相手だったが、九州随一といわれた石田泰三投手を打線が立ち上がりから攻略。4回までに5点を挙げ、投げては北口が小倉打線を4回裏の1失点のみに抑えて5‐1で快勝。こうしてあれよあれよという間に決勝戦へと進出してしまった。
まったくの無欲で勝ち進んできた洲本ナインだが、その最後の相手に伝統校の浪華商(現・大体大浪商=大阪)が立ちはだかった。相手エースの中下悟(法大ー日本石油)にはとても歯が立たないだろうと言われ、浪華商の圧勝を誰もが予想した。だが、それが洲本ナインをリラックスさせた。さらに洲本にはある幸運があった。実はこの大会前に本来の洲本の監督が病気で倒れてしまい、急きょ、同校で教鞭を取っていた広瀬吉治が監督として采配を振るっていたのだ。広瀬は終戦直後の46年第28回夏の選手権で浪華商が優勝した時の捕手だった。相手は勝手知ったる母校。この広瀬の存在が洲本ナインの緊張を完全に取り去ったのである。初回に主砲の加藤と長尾勝弘の連打で2点を先取すると2回表にも1点を奪い、試合の主導権をガッチリと握った。予想外の展開で慌てた浪華商打線をエース・北口が緩急自在の投球で翻弄し、これにバックも堅守で応える。6回表にも1点を加え、結局、北口は被安打4で4‐0の完封勝利。大番狂わせを演じた洲本がみごと初出場初優勝を遂げたのである。なお、淡路島出身の作詞家・小説家の阿久悠はこの時の洲本の活躍を見てあの不朽の名作「瀬戸内少年野球団」を書き上げたという。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=