テリー 春日はるみの時代は、どんな感じだったんですか。
川中 のど自慢に出れば優勝ですから、デビューしたらすぐ両親のために家を建てられる、と思っていたんですよ(笑)。
テリー ははは、もうそんな皮算用をしていたんですか。ずうずうしいなァ。
川中 本当ですね(笑)。でも、時代はすっかりポップス全盛期になってしまったんですよ。「スター誕生!」から山口百恵さんや桜田淳子さんがデビューしたり、他にも小柳ルミ子さんや南沙織さんもいましたから。
テリー そうか、強力なアイドルたちが周りにいるとなると、気持ちは焦りますよね。
川中 そうですよ。デビューする時には、さんざん「久しぶりの大型新人!」って持ち上げられていましたから(笑)。最初はレコード会社や事務所の人が周りに10人以上いて、お祭り騒ぎだったんですけれども、気づくといつの間にか、みんな次の新人のところに行っちゃってて。
テリー 17歳の女の子がそんなことを体験しちゃうと、傷つきますよね。
川中 いやァ、もう大人が信じられなくなりました。その頃、ちょうど父の体の具合も悪くなってしまったんですね。そこで気持ちがポキンと折れちゃって、大阪に帰って実家のお店を手伝いながら、父の病院に寝泊まりしていました。
テリー ご近所の人の目もあるし、体裁も悪かったんじゃないですか。
川中 うちの母は「あんたは悪いことをして帰ってきたわけじゃない。お母ちゃんは、あんたは何やっても成功する人やと思うで」と言ってくれて、その言葉に救われましたね。
テリー よく、もう一度歌手をやろうと決断されましたね。
川中 もず先生から「演歌というのは、ある程度の年齢を重ねないと、人の心に伝わるように歌えない。これからだぞ」と、連絡をいただいたんです。先生がわざわざ、そこまでおっしゃってくださるなら、もう一度挑戦してみよう、と思ったんです。
テリー それ、正解でしたよね。川中美幸になってからは、トントン拍子で。
川中 「ふたり酒」のヒットまで3年かかりましたけども、再デビューの時は成人していますし、一度挫折してますから、やっぱり心構えが違いました。「歌がうまいだけで売れるほど、世の中は甘くはない、プロの世界は厳しい。家も簡単に建たないぞ」と(笑)。
テリー そういう意味で考えると、挫折を経験していなければ「ふたり酒」の大ヒットもなかったかもしれないですね。
川中 そうですね。実は最初、あの歌はあまり好きではなかったんですよ。だいたい24歳で「生きてゆくのがつらい日は/お前と酒があればいい」みたいな世界がわかるわけがないじゃないですか(笑)。25歳まで頑張ってダメだったら歌手を辞めようと思っていたので、母に電話して「この歌売れへんかったら、戻ってお店手伝うわ」って言っていたんです。
テリー ああ、当時はそんな心境だったんですか。
川中 ところが電話口で歌って聴かせたら、母が泣いたんです。母もずっと苦労してきた人ですから、歌の女性と自分が重なったんでしょうね。それで「何を勘違いしていたんだろう。私は両親の代弁者になって歌えばいいんだ」と、気持ちを切り替えたんです。歌が母に届いたことで「きっと売れる」という確信も持てました。