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新★リーダーシップ論 第4回 仰木彬

金村義明 酒を酌み交わし選手の〝適材適所〟を見抜いていた

プロ野球界の名伯楽の中で、〝.気の人〟といえば、故・仰木彬氏だろう。95年の阪神・淡路大震災の時には、「がんばろう! 神戸」を合言葉に掲げ、オリックスを初のリーグ優勝に導いた。05年には肺ガンと知りつつ、「グラウンドで倒れたら本望だ」と、オリックス・バファローズの初代監督に就任。その姿を間近で見てきたプロ野球解説者の金村義明氏が語る。

10・19」のベンチ裏で…
「プロ野球の監督って、全選手から好かれるなんてことはありえませんからね。使ってもらえない人はボロクソに言いますから(笑)。そんな男たちを、一軍二軍合わせて100人ほど集めて日本一を目指すのですから、リーダーとしての力量が問われます。監督ごとに独自のチームカラーが作られ、それによって成績も大きく左右されます。仰木野球はひと言で言えば、〝管理野球〟と正反対の〝いてまえ野球〟であり、〝パ・リーグ魂〟に尽きます。ユニホームを着た時の戦闘モードなんて半端じゃなかった」
 仰木彬(享年70)といえば、これほどまでに劇的な名勝負に数多く関わってきた監督も少ないだろう。
 昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代の正二塁手として活躍し、67年に引退。その後、17年間に及ぶ長いコーチ生活を経て、88年に近鉄バファローズ(以下近鉄)の監督に就任した。派手なパフォーマンスは好まなかったが、就任1年目から猛打の「いてまえ打線」を率い、当時の王者・西武ライオンズ(以下西武)と最終戦まで優勝争いを演じ人気の面でセ・リーグの後塵を拝していたパ・リーグの歴史を塗り替えたと言っても過言ではないだろう。 88年のペナント終盤。近鉄はロッテとのダブルヘッダーに臨んだ。伝説の「10・19」である。近鉄は2連勝すれば9年ぶり3回目のリーグ制覇。ただし、引き分けも許されない状況だった。スタメンを外れた金村義明にとっても忘れられない1日だった。
「あの日、4日前の試合で左手首を骨折してしまった私は、舞台の川崎球場のバックネット裏から第1試合を観戦していました。奇跡の逆転優勝を目前にして、自宅で放心状態だった私に監督は『東京に来い!』と電話をくれたんです。涙がポロポロと落ちました」
 1対3の劣勢ムードの中、8回に同点に追いつき、最終回。2アウト二塁の場面で、新人監督はシーズン限りで引退を決意していた梨田昌孝を代打に起用。期待に応えた梨田の会心のひと振りはセンター前に‥‥。まさに〝仰木マジック〟が炸裂した瞬間だった。そして、その裏、2日前に完投したばかりのエース・阿波野秀幸を守護神・吉井理人に代えて投入し、薄氷の勝利を得たのだった。 続く第2試合は、さらなる死闘が待っていた。金村は、仰木のひと言が忘れられない。
「実はこの試合、私服の上にチームジャンパーを着て、ベンチ隅のバットケースの裏に隠れるようにして観戦していたんです。ロッカールームに行くも、仲間に声をかけられないまま席に戻ろうとしていたら、監督が『何しとんや、カネ!お前もベンチに入れ!』と呼んでくれたんです。登録抹消の身ですから許されるはずもないのに‥‥。心遣いが身に染みました」
 まさに総力戦となったこの戦いでは、先制点こそ許したものの、7回表に3対1と逆転。感極まり涙する選手が続出した。
「チームメイトみんなが泣きながら試合をしてました。監督まで突然トイレに顔を洗いに行き、『ふうっ』と大きく息を吐きながら戻ってきたぐらいでしたよ。『男は人前で泣かん!』と、否定していましたが‥‥(笑)」
 だが、ここからロッテも意地を見せ、すぐさま同点に追いつく。8回表に4対3と再び突き放すも、三たび追いつかれ、球場は騒然となった。放送予定のなかったテレビ朝日が第2試合途中から中継するほどの激戦だったのは、当時のパ・リーグの人気を考えれば異例とも言える出来事だった。「ニュースステーション」の冒頭で、久米宏キャスターが「川崎球場が大変なことになっています!」と興奮気味に語ったほどだった。 試合は延長10回引き分け。第1試合から7時間33分、パ・リーグ史上、最も長い1日は終わり、近鉄の逆転優勝の可能性は潰えた。

仰木に欠かせない3人の恩師
 だが、球史に残る一戦を終えた選手たちに仰木は言葉をかけた。
「監督は選手たちを前にして淡々と、『選手はファンを、そして私を感動させてくれた。涙が出るほどうれしかった』と挨拶してました。以来、口癖のように『あの〝10・19〟が自分の原点。あれがあるから今のオレがある』と話してましたね」 翌89年、仰木率いる「いてまえ軍団」は、みごとにリベンジを果たした。この時も最終戦「10・12」までもつれ、2位オリックスとはわずか1厘差、3位西武とも2厘という熾烈な戦いの中でリーグ優勝を飾った。
 だが、この年の日本シリーズも劇的だった。3連勝後の、まさかの4連敗。常に仰木野球はファンをしびれさせ、我々の記憶に刻み込まれるようなドラマを次々と生み出していったのだ。
 今でこそ球界を代表するリーダーとして尊敬を集める仰木だが、当時はまだ選手を引っ張っていくタイプのリーダーではなかった。
「2年先輩の中西太さんとピッチャー陣を任せた権藤博さんとのトロイカ体制でチームを指揮していた。特に恩師である名将・三原脩さんの娘婿であり、監督経験者だった中西さんから、さまざまなことを伝授されていたそうです」
 いわば、「駆け出しの監督時代」に仰木は、試行錯誤を繰り返しながらの理想のリーダー像を模索していたのだろう。まさに「名将の影に名参謀あり」と言えよう。
 そんな仰木野球を語るうえで欠かせないのが、中西の他に2人いる。その1人が、名伯楽として知られる前出の三原だった。
 緻密な組み立てでチームを勝利に導く〝仰木マジック〟という言葉自体も本を正せば、〝三原マジック〟から派生した言葉である。
「打順が目まぐるしく変わることで名付けられた〝猫の目打線〟にしても、しっかりとした理由に基づいた作戦でした。常に資料を持ちながらデータとにらめっこしてました。試合前の練習中には、よく外野を走っていましたが、決して前日の酒を抜いているだけじゃない(笑)。サングラス越しに、各選手の調子をチェックしていたんです」

データに徹底してこだわった
 データによる分析と選手のコンディションを見抜く冷徹な観察眼─。日替わりのスタメン変更は、チーム内の士気にも大きく影響を与えかねない。それでも仰木は勝ちにこだわった。
「前日の試合で3本ヒットを打っている打者をスタメンから外すことさえある。先発投手にしても、勝利投手の権利目前の4回途中で交代させることもありました。選手やコーチが戸惑うばかりか、誤解や軋轢を生みかねませんからね」
 そんな〝非情の采配〟は弱小球団だった阪急ブレーブスを常勝軍団に導いた西本幸雄の教えが根本にあるという。
「例えば、選手との距離感。西本さんが近鉄の監督時代、コーチだった仰木さんは、レギュラークラスと一緒に麻雀をすることをいさめられたそうです。仲がよくなれば、情が絡むもの。傷を舐め合うようなチームは強くならないということでしょうね」
 あの「10・19」でも、ストッパーの吉井に代えて、エースの阿波野に最後のマウンドを託しているのは勝負に徹するからこそと言えよう。それが時には、選手との間に微妙な影を落とすこともあった。
「吉井が監督の握手を拒否することもありましたよ。彼もベンチ裏の鏡を割るような激しい気性でしたから。でも、監督は『元気やのう』と、怒ることもなく、リリーフエースとして使い続けてました。吉井自身が、『あの頃は自分もわがままで、仰木さんの気持ちが理解できなかった』と振り返ってました。監督からは、選手を包み込むような度量の大きさを感じました」
 ユニホームを着れば、常に戦闘モードで勝利にこだわり続けた仰木野球。スター選手に対しても鋭い視線を向けたことも一度や二度ではない。そうしたスタンスも選手の育成に一家言を持っていた西本譲りだった。長池徳士、山田久志、鈴木啓示、梨田らを教え子に持つ西本に対し、サムライメジャーの先駆者である野茂英雄にイチロー、田口壮などを輩出した仰木。両者の共通点とは何か。
「仰木監督は、個々の選手の特長をつかんで育成方法をしっかりと練っていましたよ。野茂のトルネード投法にしても、入団前に『そのまま行こう』と伝えていたそうですし、中には、『仰木監督は大物ルーキーに恵まれた』なんて話す方もいますが、監督自身、西鉄に入団した時に投手から内野手に転向した経験上、選手に適材適所をうまく告げられたんだと思います。また、人心掌握にもたけていましたよ。監督の口癖は『飯、食いに行こう』で、酒を酌み交わしながら、主な選手の性格を把握してました。こいつは怒って蹴ったほうがいいタイプ。あいつはおだてるに限る。そいつは黙っていても大丈夫だという感じで、見守っていましたね」
 仰木は〝適材適所〟という言葉を好んで使った。少々の短所には目をつぶり、長所を伸ばすタイプだっただけに、走攻守がそろいながら送球に難のあった田口をスパッとショートからレフトにコンバートし、成功している。

「死」を覚悟した壮絶な最期
 統率力に始まり、決断力、人材の育成、人心掌握など、リーダーに欠かせない条件を満たしていた仰木だが、それにもまして、男としての魅力にあふれていたという。
「監督は、高校の先輩で俳優の高倉健さんのような男に憧れていました。ですから、『人の陰口は言わない』というポリシーを貫いていました」
 酒豪で知られる仰木は、仕事と遊びのメリハリがきっちりとしていて、選手にも「法律を犯すことはいかんけど‥‥」と、管理野球とは正反対のスタイルだったという。
「それはコーチ時代からで、練習が終われば、豪快に飲み歩き、次の日は誰よりも早くグラウンドに来てランニングで酒を抜く。私も負けじと毎晩、遊んでましたが、練習でどなられても、門限を破って説教されたことはなかった。あっ、一度だけ、『自分が一流になれなかったのは、若い時に遊びすぎたからだ。あとから気づいても遅いんだぞ。オレが悪い見本や』と、話してくれました。それを聞き、オレも超一流になれないから超二流になってやろうと決めました(笑)」
 野武士軍団と称された西鉄の豪快なスター選手の中で、そのカラーが最も似合っていた人物こそ、パンチパーマにサングラスの仰木だったのかもしれない。
 近鉄を勇退後、94年からオリックスの指揮を執り、95年には「がんばろう! 神戸」を合言葉にリーグ制覇。翌年は日本シリーズで長嶋巨人を倒し、悲願の日本一に輝き、01年に勇退。そして、04年に「野球殿堂入り」を果たすと同時に、3チーム目となるオリックス・バファローズの初代監督就任を決意する。だが、その時にはすでに肺ガンが再発していた。
「実は95 年に肺ガンの手術をしていたんです。03年に再発を聞いた時は、監督の『死』を覚悟したものでした。翌年の69歳の誕生日、『殿堂入りパーティをオレの〝生前葬〟にするんや』と告げられました」
 発起人に、高倉健や稲尾和久などの錚々たる名前が並び、多くの教え子が集結。総勢500名余りという盛大な会場には、特大の花かごが置かれ、その前で記念撮影が行われたという。その送り主は、監督から「お前の花道はオレが作ってやる」という〝.気〟あふれる言葉をかけられた清原和博だった。
「05年のシーズンが最初で最後になってしまいましたが、前半戦こそ『まずはプレーオフに出ることや』と〝仰木マジック〟〝猫の目打線〟で3位を狙える位置にいました。ただ、夏カゼから体調が悪化し、終盤は階段の上り下りができないほどだったそうです。それでも外野の大道具搬入エレベーターを使ってでもグラウンド入りしていたと聞きました」
 結果、4位でシーズン終了し、監督を引退。それからわずか2カ月後、満70歳で生涯を閉じた。
 過去、3チームを優勝に導いた名将は2人しかいない。仰木の師であった三原と西本だ。稀代の闘将に、もう少し時間があれば、記録ではきっと肩を並べていたことだろう。だが、「完全燃焼」した生きざまに誰もが賛辞を惜しまない。これこそ野球人にとって最高の名誉だったに違いない。(文中敬称略)

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