“高校野球史上最強のチームは?”という命題が語られる時、オールドファンからはよく戦後最初に現れた最強候補として1960年第42回夏の選手権を制した法政二(神奈川)の名が必ずといっていいほど挙がってくる。
のちにプロ入りしたり、社会人や大学で活躍したりと、俊英がそろっていたこともその理由の一つだろう。プロ入りしたのは主将の幡野和男が阪神、エースの柴田勲は巨人入り後に外野手に転向し、栄光のV9時の一番打者として活躍。二塁手の高井準一は近鉄、三塁手の是久幸彦は東映、外野の的場祐剛は大洋へ入団した。社会人野球では日本石油で活躍した遊撃手の幕田正力、大学野球へは捕手の奈良正浩と控えの五明公男。五明はのちに法政大の監督となり、江川卓(元・読売など)らを擁して黄金時代を築いた。しかも、この時幡野と奈良以外は全員2年生だったのだ。
こうしたタレント集団だっただけではなく、法政二の野球はヒットエンドラン戦法を多用するなど、スピードとパワーとうまさが絶妙にミックスされた“近代野球”でもあった。というのも、当時の神奈川県は年々レベルが上がっており、中でもライバル校の慶応には大型エースとして全国に名が知られていた渡辺泰輔(元・南海)がいた。この渡辺攻略のため、あらゆる対策が必要だったのである。県大会決勝でこの渡辺擁する慶応を倒し、甲子園に乗り込んだ法政二の野球は完全に甲子園を席巻することとなる。
初戦の御所工(現・御所実=奈良)を14‐3と一方的に下し好発進。エース・柴田は2年生ながら球威、制球力とも抜群。終盤には3年生の加地孝博にマウンドを譲る余裕の投球だった。2回戦は1年生ながらその剛速球が話題となっていた尾崎行雄(元・東映)擁する浪商(現・大体大浪商=大阪)。試合は7回まで両軍無得点の投手戦となったが、8回表に法政二打線の猛打が炸裂し、安打を連ねて一挙4得点。柴田は3安打の完封劇を演じた。
続く準々決勝の名門・早稲田実(東京)戦も8‐0の完勝。初回に2点を先制すると、5回に1点、8回に5点。序盤、中盤、終盤をすべて制した鮮やかな勝利だった。中でも1回裏の先制点はダブルスチールで奪ったものだった。これはこの試合が第1試合で、まだ相手の反応が鈍いというところを絶妙に突いた作戦であった。
準決勝も鹿島(佐賀)相手に6‐0。この試合も序盤、中盤、終盤に得点し、守っては先発の加地とリリーフの柴田が相手打線をわずか3安打に封じた。2試合連続の完勝だった。
決勝戦の相手は静岡。エース・石田勝広(早大)を中心とした守りのチームだった。試合は中盤まで0‐0で展開したが、5回表に2本の長短打で法政二が1点を先制すると、6回表にも3本の長短打を集中させて2得点。守っては柴田が外角にキレのいい速球を決めるなどして相手に三塁を踏ませなかった。結局、3安打完封で3‐0。法政二は初戦の3失点以外はすべて完封と圧倒的な強さで、神奈川県勢としては49年第31回大会の湘南以来の全国制覇を成し遂げたのである。にもかかわらず、このチームは2年生主体のまだ若いチームでもあった。この翌年さらにチーム力をアップさせ、春優勝、夏ベスト4。甲子園の主役、絶対的王者として君臨することとなるのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=