実はこのエピソードの肝は“戦後の夏の大会”という点である。というのも、もともと現在の夏の選手権の前身に当たる全国中等学校優勝野球大会は第1回大会が大阪府にある豊中球場で行われた。その翌々年の第3回大会から第9回大会までは兵庫県西宮市にあった鳴尾球場で開催され、今のように甲子園球場で行われるようになったのは第10回大会からなのである。
ということは、それからずっと甲子園で夏の大会は開催されているはずなのだが、実はそうではなかったのだ。47都道府県全県から代表校が出場できるようになったのは78年の第60回大会からで、それ以前は5年ごとに行われる記念大会を除いて47都道府県すべてから代表校が出場できたわけではなかった。そして今回のこの不思議なエピソードで語られる、ある意味不運なチームとは、58年に出場した清水東(静岡)だ。
この大会、第40回の記念大会で各都道府県から1校ずつ計47代表が出場できた年だった。そのため、3回戦までは甲子園球場のほかに西宮球場を併用することになっていて、この西宮球場で1回戦を戦ったのが清水東だったのだ。
初戦の八幡浜(愛媛)戦に3‐0で勝利したものの、舞台を甲子園球場に移して戦った2回戦では、同じ西宮球場で1回戦を勝ち上がった姫路南(兵庫)相手に3‐4で惜しくもサヨナラ負けしてしまった。
清水東はこの前年の大会にも出場しているが、初戦で法政二(神奈川)の前に3‐0で敗退。以後、同校の夏の甲子園への出場はなく(春の選抜にも2度出場しているが2度とも初戦で敗退)、夏の大会で勝ったことがあるのに、甲子園で校歌を歌ったことがないという珍記録を残すこととなったのである。
(高校野球評論家・上杉純也)