及川氏にはいくつもの「都市伝説」がある。その最たる例が、打ち合わせで気に入らない相手だと、
「机をひっくり返し、イスを蹴飛ばして帰った」
というもの。及川氏は笑いながら、これを瞬時に否定する。
「机をひっくり返したことも、蹴ったこともないですよ。ただ、机をバーンと叩いたことはあったかな。あと、電話で相手にキレて、受話器を叩きつけたことも。だって、言ってることがコロコロ変わるんだもん」
そんな及川氏は和歌山出身だけあって、加川良、友部正人、中山ラビら「関西フォーク」の洗礼を受けて育った。やがてプロの作詞家を目指すようになり、85年に車のPRソングに応募した作品が、約4万人の中からグランプリに選ばれたのである。
ただし、採用されたのは冒頭の2行だけで、残りは「補作詞」という形で秋元康氏が手がけている。
「悔しいのはもちろんあったけど、実績ができたのは確か。以降、コンペには参加せず、書いた詩を持っていろんなところを回るようにしたんですよ」
初めてのヒット曲は、おニャン子クラブのゆうゆに書いた「-3℃」(87年)だった。
「おニャン子だから1位が取れるかなぁと思ったけど、当時、カリスマのBOOWYがその上にいました」
幼少時は関西フォークが好きだったこともあって、歌謡曲には特に関心を示さなかった。ところが、プロの目で見ると「すごい歌詞」がそこかしこに存在したのである。
「例えば、内藤やす子さんのデビュー曲の『弟よ』は、最初の5行くらいの詞で、姉と弟が置かれている環境の全てがわかるんです。これはすごいなあと思いました」
自身の作品では、あまりヒットはしなかったが、池田聡に提供した「僕は君じゃない」(90年)に思い入れが強いという。自身の中で「ひねらない」ということができるようになった、革命的な一曲なのだとか。
余談だが、たかじんの「東京」も、もともとは羽生善治夫人の畠田理恵のために用意されたもの。(たかじんと畠田の)共通のディレクターのひらめきで「これ、たかじんに」という形になったらしい。
さて、まだまだ続く、及川氏の新しい取り組みはというと、
「この10月から『ジョジョの奇妙な冒険 黄金の風』(TOKYO MX、毎日放送など)が始まりましたが、そのテーマ曲の詞を書いています。ぜひ聴いてくださ~い」