五木 最近は、どういうわけか、銀行関係の講演の依頼が多いんだよね。たいがい相続のセミナーなんですが、兄弟で親から相続した土地を争うみたいなドライな相続の話にみんなうんざりしてるんじゃないのかな。そこでぼくは、そんな相続よりも“心の相続”というか、見えない相続のほうが大事なんだという話をしたりしています。
椎名 銀行の相続セミナーでそういう話を(笑)。
五木 まあ、イヤガラセみたいなもんだよね(笑)。例えばの話ですが、ある若い女性編集者と一緒に焼き魚を食べたとき、食べたあとの骨が標本みたいに残るきれいな食べ方だった。感心して聞いたら、母親から厳しく教えられた、母親は祖母から躾けられたと言うんです。誰でもそういう見えない相続をしていると思う。それは土地や財産よりも大事だと思うんです。
椎名 無意識に、無形のものの相続ですね。
五木 子孫に美田を残さずというか、やっぱり亡くなるときには、貯金は使い切って亡くなって欲しいね。遺すのは争いの種だから。
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椎名 五木さんの世代って芯が強いというのか、土性っ骨が強いような気がします。
五木 そうですか。きっと非常時の子供だったからですね。ぼくらは12歳で終戦ですけど、戦中は1年でも早く少年飛行兵とか予科練に入ろうと思ってたから、20歳までは生きないと思ってました。自分が特攻機に乗ってアメリカの航空母艦に向かって急降下をしていて、どんどん敵空母の甲板が近づいてくる瞬間、自分が操縦桿をグッとひねって離脱するんじゃないかっていう夢で、よくうなされたものです。
椎名 凄絶な夢ですね。
五木 ところが敗戦になったらタガが外れた。敗戦以後、不良少年みたいになって12歳のときからタバコは吸うわ、どぶろくは飲むわ、先輩たちと花札博奕をするわ、泥棒もするわで。とんでもない中学生だった。
椎名 ぼくは五木さんが「新潮」に発表された短編で『黄金時代』というのがすごく好きで、あれは血を売る、売血の話でしたね。
五木 そんなの読んでらしたんですか。お恥しい。ぼく自身も忘れてた唯一の暗い話で、エンターテインメントとしては失敗作です。半世紀も前の小説を覚えていてくれてるとは、うれしいなあ。
椎名 学生の頃にあの本を読んだんですけど、うらやましかったですね、兄貴たちの世代が。ちょうど五木さんと同じくらいの異母兄弟の長兄がいるもんですから。その兄は傷痍軍人で砲弾で片足をやられて戦地から帰って来て、軍隊で使ってた昭和新刀という日本刀がありました。ほんとは国に返さないといけなかったのを返さずに屋根裏に隠してたんですね。ぼくはそれを持ち出してよく近所の悪ガキたちに見せてました。あれは刀の柄のところに留め金があってそれを押さないと抜けないんですね。
五木 簡単に抜けると危険なんだよね。
椎名 友達に見せると、抜こうとしても抜けないわけです。そこでぼくは頃合いを見計らってスラーッと刀を抜いて見せると、友達がうわっと驚く、それがうれしくて何度もやって、ほとんど演劇と化してましたけどね。ぼくは東京で生まれましたけど、5歳で千葉に移住してからは、殴ったり殴られたり、ケンカに強くなることだけを考えていた野蛮な時期がありました。あるとき20人ぐらいの敵のグループがバットのような棒きれを持って攻めて来ましてね、このままでは殺されると思って、例の長兄の軍刀を持ちだしてきて家の前で、生け垣をバサバサ斬ってみせてたら、敵は本当の刀だとわかってサーッと去っていく。逃げていく奴を追っかけて、白菜畑のなかで刀を突き付けたまではよかった。でも真剣というのは振り回すと重たいんです。手はもうブルブル震えてヘタをすると人を殺してしまうという恐怖がありましたね。
五木 椎名さんの少年・青年時代というのは、まったく無頼の徒だったんですね。
椎名 何をやっていいのかわからない時代でしたね。五木さんの作品の『蒼ざめた馬を見よ』じゃないですが、途方に暮れた世代っていう感じです。
五木 ぼくらの世代は覚悟してお国のために死ぬんだということを疑わずにいた。戦後になってもぼくは40歳まで生きるとは思っていませんでした。両親も早くに亡くなってましたから。
椎名 ぼくも42歳で死にたかったんです。ぼくが尊敬していた柔道の先生が42歳で急死したからです。で、自分が物書きになってやたら忙しい時期にふと気がついたら45歳になってて、かつて憧れた死ぬ年齢を通り過ぎてた。そしてその次のターゲットにしたのが60歳でした。60になると相当身体もガタがきて、果たして本も売れるかどうかわからないから、60ぐらいでフェードアウトしていくのもいいなあなんて思っていたんです。39歳のときに日中共同楼蘭探検隊というのに加えてもらって、タクラマカン砂漠の中にあるロプノールと楼蘭に行きましたが、そのときに指導してくれたのが早稲田大の長澤和俊先生で、当時先生は60歳。ぼくらは先生の年齢でこれからの過酷な旅は大丈夫だろうかなんて話してたんですけど、自分もいつの間にか60歳を超えてしまってて、当時あんなことを思って失礼しちゃったなあと思いましたね。あのときに思ってた60歳を、いま自分が越してみると、どうっていうことないんだというふうに実感しましたね。
五木 通り過ぎてみるとそうなんだよ。いま平均寿命が延びて長く生きてるというのは、まったく地図のない旅をしてるようなもので、羅針盤のない航海をしているような感じですよね。長生きしたいとか思わないけど、世界や日本がこれから先どういうふうに変わっていくだろうかというのを見たいという好奇心はありますけど。
椎名 そうですね。地図のない旅を生きたいという気分ですね。
五木 よく今日まで生かされてきたものだ、ありがたいという気持ちはやはりありますよ。人事を尽くして天命を待つという言葉を、自分流に読んで、「人事を尽くさんとするはこれ天の命なり」というふうに読んで、自分の努力とかではなくて天命のようなものがあるのではないかという、得体の知れない思いが常に頭の隅にある。今日まで生きてきたのは、生きろと言われたんだと、死ぬときには死ねと言われるんだろうなあと思いつつね。
五木寛之(いつき・ひろゆき):1932(昭和7)年、福岡県生まれ。作家。北朝鮮からの引き揚げを体験。早稲田大学露文科中退後、編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞。76年『青春の門 筑豊編』ほかで吉川英治文学賞。主な著書に、『朱鷺の墓』、『戒厳令の夜』、『風の王国』、『親鸞』(毎日出版文化賞特別賞)、『大河の一滴』、『人生の目的』、『運命の足音』、『他力』(英文版『TARIKI』は2001年度BOOK OF THE YEAR・スピリチュアル部門)などがある。02年菊池寛賞受賞。また『下山の思想』、『生きるヒント』、『林住期』、『孤独のすすめ』などのほか、最新刊に『七〇歳年下の君たちへ』。
椎名誠(しいな・まこと):1944(昭和19)年、東京生まれ。作家。79年『さらば国分寺書店のオババ』でデビュー。『哀愁の町に霧が降るのだ(上・中・下)』(81~82)、『あやしい探検隊』シリーズ(84年~)、『インドでわしも考えた』などの紀行文、純文学からSF小説、写真集など、幅広い作品を手がけている。90年に映画『ガクの冒険』を監督し、91年には映画製作会社「ホネ・フィルム」を設立して映画製作・監督として『うみ・そら・さんごのいいつたえ』(91年)、『あひるのうたがきこえてくるよ。』(93年)、『白い馬』(95年)などを製作。90年、『アド・バード』で日本SF大賞を受賞。『岳物語』『犬の系譜』(吉川英治文学新人賞)、『家族のあしあと』『そらをみてますないてます』などの私小説系作品も多い。