東日本大震災から間もなく2年。仕事を奪われ「原発さえなければ」と書き残して命を断った酪農家の遺族が、今なお慟哭の声を上げている。福島原発放射能汚染の被害者たちの生活を20カ月にわたって密着撮したドキュメント映画の完成を機に、作品に登場する遺族が東電に賠償を求めて立ち上がったのである。
津波が押し寄せ、逃げ惑う住民たち。続いて福島第一原発の爆発映像のあと、「北西に大量の放射能が放出された」のテロップ──。
これは映画「わすれないふくしま」(配給:オフィスフォー/トラヴィス。3月2日より東京都写真美術館ホールほか全国順次公開)の冒頭のシーン。11年4月から昨年12月までの長期にわたり、福島県内の放射能汚染地域を克明に記録した出色のドキュメンタリーである。原発の北西40キロに位置する飯舘村。撮影はこの地から始まった。
四ノ宮浩監督が回想する。
「地元の教育委員会に行ったところ、小中学校を紹介された。そこで高橋家と知り合い、奥さんがフィリピンの女性でした」
たまたま四ノ宮監督の夫人もフィリピン出身だったことから縁ができ、その生活に密着することになった高橋さんの家族は、建設作業員の正夫さん(55)と製作所勤務の妻・ヴィセンタさん(44)、そして3人の子供と祖母の6人家族だった。洗濯物は外に干せず、井戸水を飲むことも禁止。11年5月下旬には川俣町にある六畳二間の避難先住居への移転を余儀なくされた。
そんな撮影中にハプニングが起こる。11年6月10日、相馬市の酪農家・菅野〈かんの〉重清さんが自殺した(享年54)とのニュースが入ったのだ。菅野さんの妻バネッサさん(34)も、フィリピン人だった。菅野さんは38頭の乳牛を育てていたが、放射能汚染による原乳の出荷停止で収入が断たれ、牛も処分。事業拡大のため借金をして堆肥小屋を建てたばかりだったが、堆肥も汚染されていて売れない。スクリーンには、菅野さんと親しかった酪農家の無念の声があった。
「亡くなる2日前までウチを手伝ってくれてたんだ」
また別の酪農家も、
「原発さえなければ、俺の家だって決して裕福ではないけど、家族でそれなりの生活はしてたんだ、と。何せ原発で何もかも失ってる人がいっぱいいるから」
2人の息子とともに残されたバネッサさんはカメラの前で「今も毎日考えて苦しいです。会いたい。私は夫を愛していました」と悲嘆に暮れる。自殺現場となった堆肥小屋には、壁板にチョークで書かれた菅野さんの「遺書」があった。
〈原発さえなければ 長い間おせわになりました 大工さんに保険で金を支払って下さい 仕事をする気力をなくしました ごめんなさい なにもできない父親でした〉