それまで陸軍の従属的立場だった海軍を、リーダーシップを発揮、数々の改革を行って地位向上を実現した「帝国海軍の父」がこの山本権兵衛だった。その意味では、帝国陸軍生みの親として抜群のリーダーシップを発揮した山県有朋とは、明治期軍政の“龍虎”と位置付けられる。
しかし、山県が派閥を好んだのに対し、こちら山本は衆を頼まず、部下の人事に対しても序列、私情を排した能力主義に徹してみせる「一匹狼」としてのスタンスを取り続けた。また、国際的な慣習もためらわず取り入れる度量もあり、酒もタバコもやらず、浮いた話などもまったくなしの高潔な人物とあって、同じ薩摩出身者、海軍関係者以外からも一目置かれたのである。特に、伊藤博文は山本に全幅の信頼を置いていたのだった。
山本は西郷隆盛、大久保利通と同様、鹿児島城下で下級武士が多く住んでいた加治屋町の出身であった。戊辰戦争に参加したあと、西郷の食客から勝海舟に弟子入り、一方で東京・築地の海軍操練所(のちに兵学寮)で学んだあと海軍に入り、艦務研究のためドイツ軍艦に乗艦、世界を回った。
その後、海軍大臣の西郷従道のもとで陸海軍の対等路線のための汗をかいたあと、第二次山県(有朋)内閣、第四次伊藤(博文)内閣、第一次桂(太郎)内閣で海軍大臣を務め、日露戦争では、次のようなリーダーシップを発揮、これを乗り切ったのだった。
日露戦争でわが国が勝利を収めたのは、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破ったことが大きかったが、これは連合艦隊司令長官人事で、山本が私情にとらわれぬ腕力をふるったことにあった。
すなわち、山本と同期で親戚でもあったそれまでの司令長官の日高壮之丞(ひだかそうのじょう)を外し、舞鶴鎮守府長官と“窓際”にいた東郷平八郎の起用を決断したということだった。日高は向こう気が強く、猪突猛進型であったことにより、山本としては決戦の場となりかねない日本海海戦を、日高が冷静に戦えるのか危惧したということだった。
対して、東郷は冷静、知略に富んだ人物であり、山本はこれを見抜いたということでもあった。
「難問に直面した場合は、熱してはいけない。できるだけ冷静に構え、ペラペラ喋って足元を見られることは避けなければならない」
この山本の言葉はあるとき部下の海軍大将に聞かせたときのそれで、自ら律していたように、難問に直面した時に取るべき心得を諭したものだった。
その山本の総理大臣就任は「閥族の打破」を掲げた憲政擁護運動の混乱で倒れた第三次桂(太郎)内閣のあとを受けてであった。
その頃の陸軍出身者は長州に比べて“閥色”はそれほどでもなかったが、世論が閥族視していたことにより、内閣のスタートはハンデ付きであった。しかし、豪胆にして細心、山本は臆することなく、剛腕ぶりを発揮するのである。
それまでの陸海軍大臣を現役の大将、中将とするとした規定を外す一方、文官任用令の改正で軍の政治関与に制限をかけた。また、大幅な官庁の整理と共に、一万人に及ぶ官吏を削減するといった今日の「行政改革」のさきがけを見せつけたのだった。
ところが、山本内閣はこうした成果の一方で、とんだスキャンダルに見舞われ、わずか1年余で第一次内閣の総辞職を余儀なくされるのだった。「シーメンス事件」の直撃を受けたのである。
この事件はドイツのシーメンス・ウント・ハルスケ会社が、日本の海軍から装備品の注文を取るため海軍高官にワイロを送ったことが発覚したことに端を発したものだった。これは海軍全体を揺るがす構造汚職に発展、ために予算案自体も不成立を余儀なくされての総辞職ということだった。「憲政の神様」尾崎行雄(咢堂)が言論を駆使、山本を追い詰めた結果であった。
■山本権兵衛の略歴
嘉永5年(1852)10月15日、薩摩(鹿児島県)加治屋町(かじやちょう)生まれ。山県、伊藤、桂内閣で海相。海軍大将を経て、第一次、第二次内閣を組織したが、ともに、シーメンス事件、虎ノ門事件により総辞職。総理就任時60歳。昭和8年(1933)12月8日、81歳で死去。
総理大臣歴:第16代1913年2月20日~1914年4月16日、第22代1923年9月2日~1924年1月7日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。