明治・大正期を通じ、これほど畏怖された権力者はおらず、「富国強兵」を推進した明治国家建設のトップリーダーとして君臨したのが、この山県有朋であった。
生まれは長門国(ながとのくに)(山口県)、初代内閣総理大臣の伊藤博文同様、身分は最下級とされた「卒族」の出であり、山県はこれをバネに徳川身分制の打破と明治維新参画につながる足がかりとした。吉田松陰の「松下村塾」で学ぶ。時に松陰いわく、「群才がある」として人をまとめ上げる能力は買ったものの「大識見、大才気があるわけでもない」との評価だった。そうした中で、山県は努力と運の良さを生かし、やがては位人臣(くらいじんしん)を極めることになる。
奇兵隊を率いて東上、戊辰戦争の功などで陸軍中将に。参軍した西南戦争では、西郷隆盛に投降を勧め、これにより勲一等旭日大綬章を受けた。参謀本部長兼参議を経て、第一次伊藤博文内閣の、続く黒田清隆内閣の内務大臣を務めたあと、黒田が条約改正問題で行き詰まったことで、第一次山県内閣を組織することになる。52歳である。この間、ヨーロッパ留学で近代軍政を学び、それまで単なる戦闘集団だった武士の集団を、近代的な戦闘能力の高い組織につくり変えたのが白眉だった。天皇直轄の参謀本部の設置、統帥権独立、徴兵制の実現などでこれを支えた。これをもって、山県はのちに「陸軍の父」と呼ばれ、「軍閥の生みの親」とも言われたのだった。
一方、「陸軍の父」と呼ばれ、戦闘能力の高い組織づくりに成功した山県ではあったが、軍人としての評価は高くなく、むしろ軍略家のそれが高かったのが特徴的であった。それを明らかにしたのが、明治23(1890)年12月の第1回帝国議会の貴族院での、山県のわが国初の総理大臣の施政方針演説だった。
すなわち、山県はその演説にある「国家独立、自営の道に二途あり。第一に主権線を守護すること、第二には利益線を保護することである。およそ国として、主権線及び利益線を保たぬ国はございませぬ」の言葉のあとに、「主権線」とは国境であり、「利益線」とは山県のなかでは当時の朝鮮を想定したものと思われ、大陸からの侵犯を封じ込めるとの意味合いをにじませているのだが、当時としては「主権線」「利益線」を守ることの不可欠をあえて説いた山県の軍略家としての炯眼(けいがん)が窺える。
そのうえで、都合2次の内閣を組織した山県ではあったが、内政はともかく外交では見るべきものはなかった。内政では教育勅語の発布、政党の独断性を殺(そ)ぐための官制改革、地方自治制度の確立、あるいは予算の確保を優先しての地主の地租増額改正、続発する労働運動や農民運動を抑えるための治安警察法の制定など、次々と腕力を振るい、諸施策を断行していった。
しかし、外交はと言うと、“逃げ”の姿勢が目立った。例えば、伊藤や黒田が苦労の末、失敗した条約改正も勝算が立たずと見るや、交渉の凍結を決めてしまったといった具合だった。政権の“汚点”は、さらさらご免ということのようだった。「外国語が不得手だったことから、外交は積極的になれずで逃げていた」との見方もあったのだった。
一方、山県は総理の座を降りて以後、なお元老として強い影響力を振るったことも特筆に値する。
第1次内閣を総辞職したあと第2次伊藤博文内閣の司法大臣に、その後、枢密院議長、日清戦争では第1軍司令官として朝鮮へ出征している。また、第2次内閣では、事実上、内閣を直系の桂太郎に任せて参謀総長に就任するなど、軍略家として圧倒的な影響力を誇ったのであった。まさに、天下に怖いものナシの元老・山県と言えた。
例えば、日露戦争で旅順攻略に手間取る乃木希典(のぎまれすけ)将軍を批難、たびたび火鉢やテーブルを叩いて激怒したともされている。将兵の尊敬を集めた乃木に対して激怒をあらわにするのだから、元老としての専横ぶりが彷彿とされるということである。山県が参謀総長を降りたあとの当時の新聞は、「山県公の権力は陸軍大臣より重く、参謀総長より大なり。政府といえども彼の命に抗するに能わず。今日、武断政治の弊その極に達す」と批判の声を挙げたのだった。
■山県有朋の略歴
天保9年(1838)6月14日長門国(山口県)萩城下の生まれ。松下村塾で学ぶ。奇兵隊軍監として戊辰戦争参加。陸軍卿、西南戦争征討軍参加を経て、参謀本部長兼参議、内務卿。大正11年(1922)2月1日死去。享年83。国葬。
総理大臣歴:第3代1889年12月24日~1891年5月6日、第9代1898年11月8日~1900年10月19日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。