1980年に開催された夏の選手権第62回大会で、甲子園史上最強のアイドル球児が誕生した。
東の名門・早稲田実(当時は東東京。現在は西東京)の1年生エース・荒木大輔(元・ヤクルトなど)である。実は本来、エースは2年生の芳賀誠だったのだが、東東京大会の最中にケガを負ってしまったため、都大会の準々決勝から荒木がエース格として登板。その右腕でチームを甲子園へと導いたのである。
だが、この時点でまだ荒木は、まるで注目されてはいなかった。というのも西東京都予選を勝ち抜き代表となったのが、都内でも有数の進学校・国立高校だったからだ。代表決定直後から“都立の星”フィーバーが巻き起こり、連日のように国立ナインの一挙手一投足が報じられたほど。組み合わせ抽選の結果、初日の第3試合でこの前年に甲子園春夏連覇を達成した強豪・箕島(和歌山)との対戦が決まると、その騒ぎはピークに達した。かたや早実も優勝候補の一角とされた強敵・北陽(現・関大北陽=大阪)との東京‐大阪対決となったのだが、まったく話題にのぼることはなかったのである。
そんな早実の初戦は大会4日目。フィーバーを巻き起こした国立が初戦で箕島の前に0‐5と完敗した3日後のことである。相手の北陽は激戦区の大阪を勝ち抜いてきただけではなく、参加校中最高のチーム打率3割7分4厘を誇り、右の岡崎昭彦、左の淵田誠というダブルエースも安定。かたや早実のエースはついこの前まで中学生だった1年生投手。戦前の予想ではどうみても北陽が優位であった。
だが、試合は序盤から意外な展開を見せる。先攻を取った早実は小柄な2番・高橋公一がいきなりの先制ソロを放ったのだ。さらに3回表には主砲の4番・小山寛陽に3ランが飛び出す。守ってはマウンドで荒木が仁王立ち。とても1年生とは思えないプレートさばきから外角低めに直球とカーブを投げ分け、時折投げる内角直球も威力満点で強打の北陽打線をまるで寄せつけず、なんと5回までノーヒットノーランに押さえ込む快投を見せたのだ。早実打線もこの荒木の好投に応えるべく、5回と9回にそれぞれ1点を追加。終わってみれば1安打完封、6‐0の完勝だった。
試合が終わって宿舎に帰ったら、世界が変わっていたという。荒木をひと目見ようと大勢の高校野球ファンが集まっていたのだ。スーパーアイドル・荒木大輔が誕生した瞬間であった。この後、荒木擁する早実は2回戦で東宇治(京都)を9‐1(荒木は9回1/3を投げて零封)、3回戦で札幌商(現・北海学園札幌=南北海道)を2‐0、準々決勝で興南(沖縄)を3‐0、そして準決勝も瀬田工(滋賀)を8‐0と降してなんと決勝戦まで進出。この間、荒木は大会記録である45回無失点に並ぶまであと2アウトという快投を披露していた。だが、決勝戦で優勝候補の横浜(神奈川)の前に1回裏の1死後についに失点。試合も4‐6で敗れ、惜しくも優勝には手が届かなかった。荒木はこのあと5季連続甲子園出場という快挙を成し遂げるが、結果的に1年生時のこの準優勝が最高成績となるのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=