1915年に開催された第1回の夏の選手権から出場を果たしながら、90年もの間、栄冠に届かなかった高校がある。東京の名門・早稲田実である。その間、春の選抜では1度優勝を果たしたものの、夏の選手権では2度の準優勝が最高だった。あの王貞治(元・読売)、荒木大輔(元・ヤクルトなど)らの偉大なOBでもなし得なかった夏の全国制覇を実現したのが、2006年の第88回大会。その原動力となったのが、“ハンカチ王子”斎藤佑樹(北海道日本ハム)である。
大会初日の第2試合に登場した早実は鶴崎工(大分)相手に18安打13得点をマークすると、投げてはエース・斎藤が被安打3、1失点と上々のスタートを切る。そして続く2回戦で早くも大一番を迎えることとなるのだ。その相手はこの春の選抜覇者・横浜(神奈川)を初戦で11-6と圧倒して勝ち上がった大阪桐蔭。中でも2年生ながら4番を打つ怪物・中田翔をどう抑えるかが早実勝利のポイントだったが、何と斎藤はこの怪物を4打数3三振と完璧に抑え込んだのである。
超強力な大阪桐蔭打線相手に許した安打は6本、毎回の12奪三振を奪う快投で2点完投。打線も5番・船橋悠の3ランなど計13安打で11得点。快勝だった。実はこの試合で斎藤が見せた“中田封じ”にはこんな裏話がある。もともとは“強打の三高”と言われた都内最大のライバル校・日大三の強力打線を抑えるために、“内の内”に投げる練習をしていた。内角に投げたつもりでも、もっとその内に投げられる。打者がひっくり返るぐらいのコースに投げることで、外角への球が生きてくる。その練習の成果を生かしたのである。事実、斎藤は中田の内角を強気に攻めたことで、外角へのスライダーが実に効果的に働き、中田から3三振を奪うことに成功したのだった。
難敵を倒した早実は福井商を7-1、日大山形を5-2、そして鹿児島工を5-0と下して夏3度目となる決勝戦へと進出する。
その最後の対戦相手が史上2校目となる夏3連覇を狙う王者・駒大苫小牧(南北海道)だった。試合はこの大会、体調不良で救援登板が多かった駒苫のエース・田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)が3回途中から登板し、斎藤との壮絶な投手戦が展開されることに。その均衡が破れたのが、8回表1死から。駒苫は2番・三木悠也が中堅への本塁打を放って先制する。だが、その裏、早実も二塁打の桧垣晧次朗が駒苫の中継ミスで三塁に進み、4番・後藤貴司の中堅飛で同点に。結局、このあとは両軍とも得点出来ず、15回を戦い抜いての引き分け再試合となったのである。この試合、15回を完投した斎藤は16奪三振をマークしたものの、再試合では4連投となり、その疲れが懸念されていた。
その決着の時。早実は初回に2四球2安打で1点を先制する。ここで駒苫はすかさず、田中をリリーフに送ったが、早実は2回裏に1番・川西啓介の左翼線への適時二塁打で1点追加。さらに6回裏、7回裏にも適時打で計4得点。投げては斎藤が鉄腕ぶりを発揮し、8回を終わってソロ本塁打のみの1点に抑えていた。さらに最終回に3番・中沢竜也に2ランを打たれ1点差にまで迫られたが、斎藤は最後の打者・田中との対決を三振に仕留めた。
その最後の7球目は144キロの渾身の直球。早実の長年の悲願“夏の全国制覇”、ついに達成なる。駒苫の3連覇を阻んだのは、初出場から88回も待った超名門校の意地だった。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=