戦後、史上初の5季連続出場を果たした投手といえば、今回は惜しくも予選四回戦で姿を消した早稲田実(東東京)=当時=の、荒木大輔(元・ヤクルトなど)である。その荒木が最も苦戦した予選決勝戦が1982年第64回夏の選手権の東東京都大会。荒木、高3の最後の夏であった。
決勝まで打線が好調で危なげなく勝ち進んできた早実は修徳と対戦。試合は先攻・修徳、後攻・早実で始まった1回裏に3番・池田秀喜の一塁線突破の二塁打で早実は1点を先取。しかし、エース・荒木が不調で2回表にあっさりと逆転されてしまう。
しかしその裏、早実もこの大会絶好調の打線が満塁のチャンスを作り、押し出しで、すかさず同点に追いつく。ここで修徳は先発に代えてアンダースローの藤沢をリリーフに送ってきた。藤沢の下手から繰り出す速球は手元で浮き上がり、カーブも切れるという抜群の出来で絶好調だったハズの早実打線から快音が消えてしまった。一方の荒木は依然として調子が戻らず、幾度となく走者を出したが、それでも何とか要所を押さえ、得点を許さなかった。試合は完全にこう着状態に陥ったのである。
そのまま試合は2‐2で延長戦へと突入。10回表に荒木は2死三塁のピンチを背負ってしまう。この場面で修徳の打者は3番・主将の一花。この一花が荒木の速球を強振すると打球は三遊間突破と思われる強い当たりに。だが、次の瞬間、ショートの黒柳知至が横っ飛びでこの打球を押さえ、一塁に矢のような送球でアウトにしたのである。
“ピンチの裏にチャンスあり”。この言葉通りにその裏、早実打線は1死から四球とレフト前ヒットで一、二塁とサヨナラのチャンスを掴んだ。ここで打席に入ったのが途中から守備固めで入っていた左打者の萱原純。この萱原が低めに落ちてくる難しい球を拾い上げ、ライトの頭上を抜いたのである。3‐2で早実の劇的なサヨナラ勝ち。ホームベース付近に出来た早実ナインの歓喜の輪の中にネクストバッターサークルにいた荒木もバットを持ったまま加わり、喜びを爆発させたていた。荒木がここまで喜ぶ姿は珍しかった。それだけに5季連続へのプレッシャーが大きかったのだろう。
そして甲子園での本番、荒木は圧倒的な破壊力を持つ池田(徳島)打線につかまり、2‐14で大敗を喫するが、それでも戦後初の5季連続出場投手という勲章に傷がつくことはなかったのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=