日本プロ野球界では読売ジャイアンツの4番として、その後、MLBではニューヨーク・ヤンキースなどで長距離砲として活躍した松井秀喜。2012年の現役引退後、現在はニューヨーク・ヤンキースGM特別アドバイザーを務めているが、13年には計20年の長きに渡るプロ野球人生の集大成として国民栄誉賞も受賞している。
そんな松井は北陸の強豪・星稜(石川)の4番として高校時代に4度の甲子園出場を果たした。1990年の入学直後の練習試合から4番を務めたこともあって、“北陸の怪童”“星稜恐怖の1年生4番”などと呼ばれ、徐々に野球関係者の間にその名が知られていった。同年夏の石川県予選で左右に2本塁打した長打力と柔軟性は早い段階から高評価を受けていたほどだ。
だが、予選を勝ち抜き甲子園にコマを進めたこの年の星稜は、残念ながら日大鶴ヶ丘(西東京)の前に3‐7で初戦敗退。自身も3打数0安打に終わり、ほろ苦い甲子園デビューとなってしまった。それでもこの試合、松井に対した日大鶴ヶ丘のエース・難波俊明は「なんとか打ち取りましたが、瞬間、“いかれたかなぁ”と思いました。センターがいいところにいて助かりましたが、フェンスまで飛んで“あちゃー!スゲェなー!”と思いましたよ」とそのスゴさを語っていたのだった。
松井に待望の甲子園第1号が飛び出したのは1年後の91年第73回夏の選手権だった。3回戦の竜ヶ崎一(茨城)戦である。
試合は竜ヶ崎一が先手を取った。3回裏、星稜の先発・2年生左腕の山口哲治からエース・藁科智尉みずからがレフトへのソロ弾を叩き込み、先制。ちなみにこれは甲子園球場の第700号ホームランという記念の一発であった。
対する星稜の反撃は6回表。四球の走者を一塁に置いて4番・松井がライトへ弾き返し、一、三塁とチャンス拡大。この絶好の場面で5番・石田貴洋がセンターの右へ適時打を放ち、まず同点に。さらに6番・本橋将の打球がつまりながらもライト前に抜け、これで2‐1と勝ち越しに成功。そして8回表にこの試合最大のハイライトが訪れることとなるのである。
この回、無死から星稜は3番・山口が二塁打を放って出塁。ここで打席に入った松井のバットは1ボール2ストライクから藁科が投じた外角高めのシンカーを迷いなく捕らえる。「落ちなくてシュート気味に甘く入ってしまいました。投げ終わって下を向いた時に、ガチンって音がして後ろを見たら、ライトは打球を追っていませんでした」とは打たれた藁科の言葉である。打球はまだこの時は存在していたラッキーゾーンのはるか上を超えて甲子園最深部の右中間スタンド中段に飛び込む2ランとなって消えていったのだった。
その裏、星稜は竜ヶ崎一の反撃にあい、4‐3と1点差まで詰め寄られるが、なんとか逃げ切った。結果的に松井の2ランが貴重な追加点となったワケだ。
その後、星稜は準決勝まで勝ち進むも、大阪桐蔭との一戦は力尽き、1‐7で大敗。この大会で松井は4試合で15打数4安打1本塁打。打率2割6分7厘の成績を残して甲子園を去っていったのであった。
この1年後の夏に、あの“5打席連続敬遠”という驚愕の伝説が生まれる。松井はラッキーゾーンが撤去されて広くなった高3の春の選抜では3本塁打を放ち、高校3年間の甲子園で計4本塁打を放っているが、実は夏の甲子園での本塁打はこの高2の夏の竜ヶ崎一戦での1本だけなのである。(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=