この防衛庁長官では、いよいよパフォーマンスが全開となった。
なるほど海軍将校あがり、就任直後の「長官巡視」では、まず東京・練馬区の第一連隊への巡視が慣例なのだが、どこ吹く風で北海道は千歳第七師団へ向かったのだった。当時の防衛庁担当記者の次のような証言が残っている。
「あえてジェット戦闘機に乗り、重力に耐えて、顔をゆがめながら第七師団に“降下”してみせた。巡視のあとは、若い自衛隊員と車座になって茶碗酒を酌み交わした。時に中曽根いわく『オレはなぁ、あえて佐藤総理に頼み込んで防衛庁に来たのよ。言うなら、君たちと同じ志願兵だナ』とやって、大いに歓迎されたそうだ。旧日本軍なら長官は元帥で若い隊員が口をきけるところではないが、コレで隊員たちとのミゾを見事に埋めてみせたといいます」
こうした一連のパフォーマンスを見る限り、中曽根は「名優は『出』が大事」を誰よりも心得た、名演出家でもあったと言えそうだ。なるほど、『劇団四季』の名演出家・浅利慶太とも仲がよかったのはうなずけるところでもある。
さて、その防衛庁長官を辞したあとでも、「私は沖縄問題が解決するまでは佐藤総理を守る」とソツなくの“遊泳”、のちの改造人事では総務会長に就任、党三役の一角をまんまと手に入れたものだった。
そうした中曽根に対し、佐藤派幹部としてほぼ一人で派の“台所(資金)”を支えたとされる田中角栄は、こう言い切ったことがあった。
「中曽根は国家観もあり上質の株だが、上場株ではない。遠めの富士山。近づけばガレキの山だ」
そう見抜いた田中と、最後はその田中の支援を受けて宿願の総理のイスにすわった中曽根。「炯眼」は、果たしてどっちだったか。
■中曽根康弘の略歴
大正7(1918)年5月27日、群馬県生まれ。東京帝国大学法学部から内務省入省。海軍主計主査。警視庁警視などを経て退職。昭和22(1947)年民主党から衆議院議員初当選。昭和57(1982)年11月、内閣組織。総理就任時64歳。令和元(2019)年11月29日、老衰のため死去。享年101。
総理大臣歴:第71~73代 1982年11月27日~1987年11月6日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。