冷静なリアリストとして権力の美酒に酔いしれる一方で、明確な国家観、常に自分を見つめる目を持っていたのが大勲位・中曽根康弘元総理だった。その裏で、耳目を集めることには何でもチャレンジする「戦後総理最大のパフォーマー」でもあった。その秘録を公開。
先刻、101歳の長寿をまっとうした中曽根康弘元総理だったが、そのパフォーマンスの巧みさは、戦後歴代総理の中でも異色、突出していた。かつて、訪米、ブッシュ大統領の前でロック・ギター演奏のマネをし、日米両国民から失笑を買った小泉純一郎元総理もパフォーマンス好きで知られていたが、中曽根の年季の入ったそれと比べれば足元にも及ばない。
海軍将校から政治家となり、なった以上は目指すは総理のイス以外はなしで、そのためには耳目を集めることは何でもやるの「突撃精神」が、中曽根流パフォーマンスの真髄だった。
それは、昭和22(1947)年4月の総選挙で民主党から出馬、初当選、その初登院の日から始まっていた。その日のイデタチは、なんと黒の背広に黒のネクタイという“葬式スタイル”で、それを記者に問われていわく、「祖国が占領されているという悲しい現実を、私は国民の一人として喪に服し、肝に銘じるためである」というものだった。
その後、間もなく所属の民主党が社会党らと連立を組んで政権を取ったのだが、その直前に民主党内で首班を巡って総裁争いが勃発した。元総理で保守系の幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)と、社会党との連携を重視する中道派の芦田均(あしだひとし)の双方の支持者が対立、中曽根はドタ靴で首相官邸に乗り込むと言ったのだった。「芦田を総裁にすべしであるッ」。
あまりの剣幕に恐れをなした民主党幹部から、「青年将校!」との声が出た。幹部は、どうやら昭和11年の「二・二六事件」の青年将校の決死の意気込みに似たものを感じたようだったのである。
昭和26年に入ると、こんどは突然「日の丸愛国運動」なるものをブチ上げ、ついには建白書「マッカーサーに建白す」を出して“反共憂国”を印象付け、岸信介内閣で科学技術庁長官として初入閣を果たした。岸はどうやら、「ウルサイ奴だから取り込んでおけ」の心境だったらしい。
また、中曽根はこの初入閣がよほど嬉しかったようで、「このポストは、私にとって大将(総理)へ向かってのスタートになる」と公言、同時に大変な自信も得たようで、翌年には自ら新聞に「首相の国民投票制」なるものを投稿したのだった。この言うなら「首相公選論」の提唱は、自ら総理のイスへの近道を模索したのがミエミエだったのである。
あるいは、この「首相公選論」には、“続き”があり、その後、中曽根の選挙区の群馬県には、「首相も恋人も、あなたが選びましょう」とのカンバンが、田畑、野原におびただしくも立てられたのだった。まさに“我田引水”といったところである。
やがて、政権が池田勇人の時代になると、南極視察に手を挙げ、南極のポールに「日の丸」を掲げたまではよかったが、堂々となりに「首相公選の旗」なるものも掲げてみせるなど、それこそ耳目を集めそうなことにはあらゆる神経を使っていることが証明されたのだった。
一方、政権がその池田から佐藤栄作に代わると政界遊泳術の巧みさ、すなわち嗅覚鋭い「風見鶏」がフル回転することとなる。
「佐藤批判の精神を貫く」とブチ上げ、まずは急逝した農林大臣などを歴任した実力者の河野一郎(現・防衛相の河野太郎の祖父)が率いた河野派の大半を糾合、小なりとは言え中曽根派の旗揚げに動いた。
ところが、「反佐藤」ゆえの冷やメシ期間の長さにシビレが切れたか、その第2次内閣で運輸大臣のニンジンをぶら下げられると、いとも簡単に飛びついてしまった。親分の“変節”に収まらないのが中曽根派の面々で、不満の声が噴出する中、中曽根いわく「犬の遠吠えでは効果がない。刀の切っ先が相手に届く必要がある。佐藤さんのために入閣するのではなく、政治家として国家国民のために働くためである」とかわしてみせたのだった。中曽根が軍門に下ったことを見届けたかのように、佐藤はこのあとも引き続き、第3次内閣でも防衛庁長官に起用したのである。
■中曽根康弘の略歴
大正7(1918)年5月27日、群馬県生まれ。東京帝国大学法学部から内務省入省。海軍主計主査。警視庁警視などを経て退職。昭和22(1947)年民主党から衆議院議員初当選。昭和57(1982)年11月、内閣組織。総理就任時64歳。令和元(2019)年11月29日、老衰のため死去。享年101。
総理大臣歴:第71~73代 1982年11月27日~1987年11月6日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。