結局、反対する父親を押し切り、夫人にもなんら相談することなく、内務省に辞表を出してしまったのだった。東京の自宅に夫人を置いたまま、さっさと郷里の高崎に帰ってしまったのである。
高崎では、内務省の退職金で買った自転車をペンキで白く塗り、「日本をアカの手から守ろう」と訴えて回り、青年団に働きかけて『青雲塾』を結成、「日本の再建を目指そう。青年よ立て!」などと口角泡を飛ばしたりしていた。これは無論選挙に打って出るためで、夫人にこうした“消息”を入れたのは、なんと高崎に帰って1週間後だったというから驚く。
夫人からすれば、1週間“行方不明”の夫だったワケだが、1週間後のそれも「オレは選挙に出るから群馬に来い」のハガキ一枚ときたから、夫人とすればまごうかたなき“結婚詐欺”ではあったろう。今日日(きょうび)の女性なら、間違いなく「約束が違うから別れるワ」となるところだが、ひと昔前の女性はガマンがきくのである。
一方、当選した中曽根は、当選回数を重ねるにしたがって重責が増し、選挙でも地元になかなか帰れなかった。とくに、中選挙区時代の〈群馬3区〉は他にいずれものちに総理となる福田赳夫、小渕恵三といった強力候補がいるだけに、選挙戦で夫の留守を守る夫人の役割は大変だった。
かつて中曽根派幹部だった中尾栄一(元通産相)は、筆者にこんな話をしてくれたことがある。
「中曽根夫人は東京生まれ、“カカア天下と空っ風”の群馬の風土はなかなかヨソ者を受け入れがたいところがあって、夫人は相当、苦労したようだ。中曽根がまだ2、3回生の頃だったが、夫人が土砂降りの雨の中で支持者に頭を下げたら、『そんなにフダ(票)が欲しかったら土下座してみろッ』との声が飛んだ。夫人は、その場で泥道に土下座してみせたそうです」
これだけの「内助の功」を果たした夫人に、中曽根はゼイタクにもこう“採点”したことがある。まあ、よくも言ったものである。
「妻は80点くらいではないか。聖母マリアとか、観音様とか、キューリー夫人とかがみんな合わさったのが、私の百点満点の女性だ。それを考えれば、まだ20点は不足している」
その蔦子夫人は、平成24(2012)年11月7日、91歳で死去した。中曽根はその柩に、自らしたためた次の一句を入れたそうだ。中曽根のロマンチックぶりが知れる。
「頼みあう 夫婦となりて 年のくれ」
■中曽根康弘の略歴
大正7(1918)年5月27日、群馬県生まれ。東京帝国大学法学部から内務省入省。海軍主計主査。警視庁警視などを経て退職。昭和22(1947)年民主党から衆議院議員初当選。昭和57(1982)年11月、内閣組織。総理就任時64歳。令和元(2019)年11月29日、老衰のため死去。享年101。
総理大臣歴:第71~73代 1982年11月27日~1987年11月6日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。