「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄民営化などの行政改革・日米関係の強化などに取り組み、多くの足跡を残した中曽根元首相が2019年11月29日に101歳で他界した。政治家の間での人気はイマイチだったが、国民からは大きな支持があった。その人気を支えた夫婦生活秘話──。
「鈴木善幸さんが退陣表明をした翌日、中曽根さんの家で夫妻と朝食をとった。テレビで、ハマコーさん(浜田幸一元代議士)が珍しく中曽根さんのことをほめていた。中曽根さん、じつにテレくさそうな顔をしていましたな。で、私が『奥さん、いよいよファースト・レディですな』と言うと、はにかみながらもなんとも嬉しそうだった。夫人にとっては、宿願かなっての、いよいよの総理大臣ですからね」
当時、中曽根派幹部で、のちに総理のイスにすわることになる宇野宗佑が筆者のインタビューでこう振り返ってくれたのは、昭和57(1982)年11月の中曽根内閣発足から間もなくであった。
「ポスト鈴木」は、事実上、最大派閥に君臨する田中角栄元首相の意向で決まったが、ハマコーが初めてホメたということは、田中の“意中”が中曽根であることを明らかにしたということだった。
二人の結婚は、昭和20年2月11日の「紀元節」(今の建国記念の日)、中曽根は海軍省軍務局勤務の26歳、妻・蔦子23歳であった。「紀元節」に挙式とは、いかにも“タカ派”中曽根らしかった。その中曽根は、戦後2回目の昭和22年4月の総選挙に出馬、初当選を飾った。以後、「日本の再建」、そのためにはと一貫して総理の座を目指してきた男であった。ちなみに、同期の当選に田中角栄がいる。妻・蔦子にとっては、結婚以来じつに37年余を経ての夫の“満願成就”の総理のイス、冒頭の宇野宗佑の証言による喜びぶりが伝わってきたということである。
群馬県高崎市の関東有数の材木屋の生まれの中曽根は、東大を卒業と同時に内務省に入り、築地の海軍経理学校を出、主計中尉となった。一方の蔦子は、早大教授の娘だった。蔦子はのちに、本音半分、冗談半分でこう口にしている。
「私は“結婚詐欺”にあったようなものでございます。役人と結婚したら安心だと思って嫁にきたのに、途中で私になんの相談もなく、勝手に辞めちゃって。結局、選挙ばかりやらされてきましたから」
結婚当初の中曽根は、のちに「トップダウン」手法の大統領型宰相と言われたように、すでにその“片鱗”があった。新妻を、「貴様ッ」などと海軍調で呼んでは、しばしばビックリさせたものであった。その一方で中曽根ののちの異名、「風見鶏」ぶりも発揮したのだった。「風見鶏」とは、周囲へ目配りを欠かさないところから来ている。群馬の地元記者が、こんなエピソードを語ってくれたことがある。
「終戦時の食糧事情の悪いとき、蔦子夫人は最初の妊娠をした。お腹の中は、のちに参院議員となる中曽根弘文氏です。中曽根がある会合に出ると、夏ミカンが出ていた。中曽根は、妊娠してすっぱいものが欲しいであろう夫人のために、食べたふりをしてそっとポケットに入れて持って帰ったそうなのです。また、新妻当時の夫人の写真を常に内ポケットに入れていたというから、じつはカミサンのほうにもちゃんと向いていた“風見鶏”だった」
ところが、中曽根という人物、若いときから、こうと思ったら独断で突っ走る。その頃の中曽根の一句にも、こうある。
「俗論は 潮騒のごと 雲の峯」
■中曽根康弘の略歴
大正7(1918)年5月27日、群馬県生まれ。東京帝国大学法学部から内務省入省。海軍主計主査。警視庁警視などを経て退職。昭和22(1947)年民主党から衆議院議員初当選。昭和57(1982)年11月、内閣組織。総理就任時64歳。令和元(2019)年11月29日、老衰のため死去。享年101。
総理大臣歴:第71~73代 1982年11月27日~1987年11月6日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。