87年にデビューして69勝を挙げ、新人最多勝記録を更新した武は、翌88年も順調に勝ち鞍を重ねた。
そして3月19日、運命の馬、スーパークリークに出会う。伯楽・伊藤修司に、「脚を痛がっているので、様子を見てほしい」と言われ、すみれ賞のパドックで初めて跨った。返し馬に出ると本当に痛がっているので、「大丈夫かな」と不安を抱えたままレースに臨んだ。無理せず、そっと乗ってコーナーを回り、勝負どころで軽く仕掛けたら鋭く反応し、直線だけで前をぶっこ抜いた。
凄味のある末脚に、武は全身がゾクゾクするのを感じた。レース後、鞍を外した彼に伊藤が話しかけた。
「なかなか見どころのある馬やろ?」
「はい、先生、この馬でダービーに行きましょう!」
芝2200メートルで2分18秒8という勝ちタイムも平凡だったし、強敵とは言えない相手に半馬身差をつけただけだったが、武はこの一戦で、数字には表せないサラブレッドの強さを体感し、それらを彼だけの「財産」として蓄えていく。
武に初めてダービーを意識させたクリークはしかし、調教中に骨折して春シーズンを休養することになった。
そして秋、復帰戦の神戸新聞杯は3着、つづく京都新聞杯は直線での不利が響いて6着となり、菊花賞の優先出走権を得ることができなかった。ほかの馬で菊花賞に出ることもできたのだが、武は「クリーク以外の馬に乗るつもりはありません」と言い放った。背景には、伊藤に「何事もなければ勝てる。うちの馬に乗りなさい」と言われていたこともあった。
直前に回避馬が出たため、菊本番3日前の木曜日、ようやく出走が確定した。
88年11月6日、第49回菊花賞のゲートがあいた。
武・クリークは8枠17番という外枠からスタートした。
「こんな外から菊花賞を勝った馬は‥‥」と記憶をたぐって脳裏に蘇ってきたのは、10年前、父・邦彦が20頭立ての16番枠を引いたインターグシケンで勝ったレースだった。父は最後の直線で内を突いて栄冠を手にした。息子も同様のイメージを持ってクリークを内に誘導した。
勝負どころから加速し、直線入口、以前乗ったカツトクシンに前を塞がれる格好になった。しかし、武はこの馬が外に膨れる癖を知っていたため自分は動かず、進路ができるのを待った。
思惑どおり前があき、武はクリークにゴーサインを出した。クリークは末脚を爆発させ、2着を5馬身突き放す勝利をおさめた。
クリークの能力を見抜いた相馬眼、大外から内にスムーズにもぐり込んだ騎乗技術、かつての騎乗馬の癖を利用した頭脳。
19歳8カ月の少年によるGI初優勝は、フロックではないことが明らかだっただけに、競馬サークル内外に与えた衝撃は大きかった。(敬称略)
◆作家 島田明宏