オグリキャップの「奇跡のラストラン」で新たな伝説を作った翌年の91年、天才・武豊騎手に大仕事が舞い込んできた。それは「メジロ軍団」総帥の遺志であり、メジロ関係者の悲願「天皇賞父仔3代制覇」である。騎乗依頼を受けた天才に緊張感が広がった──。
スーパークリーク、イナリワン、オグリキャップの「平成三強」が1990年限りで引退し、ひとつの時代が幕を降ろした。
三強すべてに騎乗した武の古馬中・長距離戦線でのお手馬がいなくなった‥‥と思われたのも束の間、きわめつけの強豪の騎乗依頼が舞い込んできた。
前年の菊花賞馬、メジロマックイーンである。しかし、管理調教師の池江泰郎から騎乗依頼を受けた武の胸にひろがったのは、喜びではなく、緊張感だった。
なぜなら、この騎乗依頼は、84年に世を去った「メジロ軍団」の総帥・北野豊吉の遺志を実現させてほしい、という依頼でもあったからだ。その遺志とは、メジロアサマ、メジロティターン、メジロマックイーンによる、史上初の「天皇賞父仔3代制覇」であった。
北野が所有したメジロアサマは、70年の天皇賞・秋を制したのち種牡馬となるも、初年度は受胎馬がなくシンジケートが解散。北野はアサマを個人で所有し種付けをつづけ、誕生したメジロティターンが82年の天皇賞・秋を勝った。その仔による盾の父仔3代制覇に執念を燃やしながらも、マックイーンの誕生を前に世を去ったのだ。
重圧のかかる大仕事だからこそ、武が選ばれた。
だが、コンビ初戦の阪神大賞典をレコードで快勝しても、武は「絶対」の自信を持てずにいた。癖がなく、乗りやすいのだが、走りがどこか優しすぎるというか、淡白に感じられたという。このときのマックイーンには、「平成の三強」が持っていたような「凄味」がなかったのである。
にもかかわらず、91年4月28日の天皇賞・春を圧勝し、「メジロ」関係者の悲願だった天皇賞父仔3代制覇を難なくやってのけた。
「つかみどころがない」と言おうか、ゾクゾクするような強さを鞍上に感じさせないのに強烈なパフォーマンスを発揮する、ちょっと変わった馬だったのだ。
武・マックイーンは、天皇賞父仔3代制覇を達成した半年後の天皇賞・秋で、1位入線するも最下位降着という屈辱を味わう。
翌92年、前年の二冠馬トウカイテイオーとの「天下分け目の決戦」と言われた天皇賞・春を勝ち、復権。骨折による休養を挟んだ93年の天皇賞・春ではライスシャワーの2着に敗れるも、次走の宝塚記念を勝つ。
そして、秋の京都大賞典を2分22秒7という驚異的なレコードで勝ち、史上初めて獲得賞金が10億円を突破した。旧7歳。普通なら衰えはじめるところだが、このレースで初めて、マックイーンは武に「凄味」を感じさせた。しかし、天皇賞・秋の直前に左前脚繋靱帯炎を発症し、引退することになった。
「最後のレースが一番強かったなんて、いかにもあの馬らしいですよね」
ともに大きな浮き沈みを経験してきた相棒を懐かしむように、武が呟いた。
マックイーンは2006年4月3日、奇しくも自身の誕生日に世を去った。
そして今、11年の三冠馬オルフェーヴルや、12年の二冠馬ゴールドシップの母の父として「血の強さ」を見せている。そんなところも武に言わせると、「いかにもあの馬らしい」のかもしれない。
◆作家 島田明宏