21世紀において、あまりにも多様化してしまった「アイドル」という存在。その名がシンプルに輝いていた70年代から80年代は、真に選ばれし者のみの称号であった。それは、俺たちにとって「潮騒のメモリー」と呼べる郷愁ではなかったか‥‥。
「おら、アイドルになりてえ!」
新章に突入した「あまちゃん」は、ヒロイン・天野アキ(能年玲奈)の無垢な叫びによって扉が開かれる。同ドラマの共演者・小泉今日子や薬師丸ひろ子がいた80年代こそ、アキが瞳を輝かせる“本物のアイドル黄金期”だ。
振り返れば、日本にアイドルという言葉が浸透したのは、71年にデビューした南沙織によってである。同年の紅白歌合戦に初出場すると、司会の水前寺清子がこんな紹介をした。
「ティーンのアイドル!」
清楚なルックス、愛らしい振り付け、ミニを基調とした衣装、そして流行歌ではなくヤングポップスを歌うことが「王道アイドル」のフォーマットとなった。
そんな流れを継承したのは、80年代の後半までとなろう。昨今のように総選挙の結果で物議をかもすことなく、誰もが認める「清く正しく美しく」こそ、トップアイドルであった。
そして85年──日航ジャンボ機が墜落し、阪神が21年ぶりの優勝を決めた年に、アイドルの頂点に並び立ったのは菊池桃子と南野陽子であった。
歌にCM、ドラマや映画と活躍するのは70年代アイドルと同じだが、さらに2人には「雑誌の顔」という一面が加わる。ナンノは「DELUXEマガジンORE」(講談社)の、桃子は文字どおり「Momoco」(学研)の“看板娘”に君臨する。
「Momoco」誌の創刊直後から編集長を務めた鎌田孝一が“一致の理由”を明かす。
「誌名だけは早くから決まっていて、そこに偶然、桃子の売り込みがあったんですよ。これはもう運命のいたずらとしか思えない。だったら彼女を看板娘にしようということになった」
83年11月の創刊号で早くも表紙を飾り、以降も毎号のように表紙や巻頭グラビアを組んだ。桃子の人気に引っ張られ、同誌は最大45万部もの発行部数に成長する。
また新人発掘をめざした「モモコクラブ」のコーナーから、菊池桃子に憧れた西村知美や杉浦幸、酒井法子らがデビューした。鎌田は杉浦幸と出かけたカラオケで意外な一面を見た。
「ああ見えて幸が歌うのは桃子のデビュー曲の『青春のいじわる』など清純な歌ばかり。知美も幸も本当に桃子のことを尊敬していましたね」
その魅力は、まず顔立ちにあった。筆者はこの仕事を始めて間もない87年に「取材会」の名目で5人ほどの記者で桃子を囲んだことがある。その瞬間、少女マンガと錯覚するほどの大きな瞳を見た。あの驚きは後にも先にも一度だけのことだが、鎌田はプロとしてその要素を生かした。
「表紙の写真を選ぶのに、桃子はまったく苦労しなかった。どの写真も目が大きくてニコニコしているから幸福感があふれていた」
初めての写真集は7万部が1週間で完売したという。