例えば松田聖子がリードした「80年組」や、明菜やキョンキョンが競った「82年組」のように、空前のアイドルブームは周期的に訪れる。その一方で〈冬の時代〉もまた、避けられない波であった。それでも‥‥78年の石野真子や石川ひとみは、懸命に可憐な花を咲かせていた。
「ええっ? 会場だけでいっちゃったよ、おい!」
70年代のアイドル史に欠かせぬ「スター誕生!」(日本テレビ)において、司会の萩本欽一は驚きの声を上げた。通常は会場の票が500点、審査員の票が500点、その合計を7人の出場者が分け合い、合わせて250点を超えた者が決戦へコマを進める。
77年2月13日、石野真子は一般審査員だけで合格ラインに達し、トータルでは過半数を上回る530点をたたき出す。桜田淳子も山口百恵も、ピンク・レディーもできなかった空前の快挙である。
「事務所や番組のプロデューサー、そしてレコード会社などでプロジェクトチームを結成しました」
ビクター音楽産業で真子の初代ディレクターだった谷田郷士が振り返る。決戦大会においても真子に対してスカウトの表示は16社となり、まだデビュー前なのに、会場には「真子ちゃ~ん!」の雄叫びすらあったという。
とびきりの美人ではなく、歌唱力にも目を見張るものはない。それでも、真子の屈託のない笑顔は万人を撃ち抜いた。そんな真子をどういうコンセプトで売っていくか、谷田たちは連日の協議を重ねた。
「彼女は芦屋の本物のお嬢様。それなら『山の手のお嬢さんが下町に遊びにきた』というイメージにしようとなったんです」
衣装は少女マンガ家の里中満智子が手掛けた。そしてデビュー曲は、稀代のヒットメーカーである阿久悠が作詞、フォーク界の大御所である吉田拓郎が作曲──垣根を越えた夢の組み合わせになるはずだった。ところが、と谷田は言う。
「拓郎さんの行きつけだった表参道の『プレイバッハ』に押しかけて、10万円以上もするナポレオンのボトルを入れて、それでも『イヤだよ』の一点張り。それなら真子に会ってもらうしかない。会えば絶対に気に入るはずだと‥‥」
すでに阿久悠は異質の組み合わせを「おもしろい!」と了承している。後に引けない谷田は、断られた2日後に真子を連れて再び拓郎のもとを訪ねた。
「拓郎さんはアイドルが好きだと聞いていた。そしたら真子の顔を見てすぐに『よし、書くよ!』でしたから。さらに『僕をファンクラブの第1号にしてくれ』と言ってくれました」
阿久悠が詞を書いた「狼なんか怖くない」に、拓郎の独特な節回しが乗っかる。いったん芦屋の実家に戻った真子は、電話口で拓郎が歌うデモテープを聴き、感激の涙を抑えることができなかった。
そしてレコーディングは、78年の1月に行われた。ただでさえ音程のアップダウンが激しい「拓郎節」を新人が歌うのは至難の業で、夜の7時から明け方の3時まで、実に8時間にも及んだ。
「拓郎さんはディレクションも引き受けてくれて、その長い時間につきあってくれた。ようやく終わった時には、スタジオ中が拍手に包まれました」
谷田は「ビクターの301スタジオ」と明確に記憶する。さらに同じ日、1つ上の「401スタジオ」では、サザンオールスターズがデビュー曲「勝手にシンドバッド」のレコーディングに明け暮れていた‥‥。
◆アサヒ芸能8/1号より