当時のひとみは、木之内みどりに比べればポッチャリした印象が大輪にはあった。ともに男性グラビア誌では絶大な人気を誇った「ビジュアル系」だが、さて、歌手としてはどうイメージすべきか──。
「健康的な笑顔だけど、歌としては“陰り”があったほうが合うんじゃないかと思ったんです」
2作目に用意した「くるみ割り人形」は、粉々に砕かれるほどの失恋ソングである。自身を「あやつる人がいなくなったくるみ割り人形」と嘆く歌であり、ひとみの新人離れした歌唱力で成立させていた。
そんな78年夏、翌年に歌手デビューを控えた合田道人(現・音楽プロデューサー、作家)は、同じ渡辺プロの先輩であるひとみと接した。現在は自身の「童謡コンサート」にゲストで招いたり、理事を務める日本歌手協会のイベントにも出てもらう仲だが、当時は“憧れの新人アイドル”であった。
「僕は札幌に住んでいて、夏休みにデビューの準備のために合宿で上京。ナベプロの国立寮にはいろんなアイドルがいたけど、後輩のことまで気にかけるひとみちゃんは学級委員みたいな存在でしたね」
ただし、ひとみほどの容姿と歌声があっても大ヒットにはつながらない。同年の日本歌謡大賞の新人賞は渡辺真知子やさとう宗幸など、ニューミュージック勢が健闘。ひとみも7人の候補の最後にすべり込んだが、その場にマネジャーはいなかったと合田は言う。
「僕とひとみちゃんは同じマネジャーだったけど、授賞式の会場に彼は『心臓に悪いから』と行かなかった。今から思えば、新人賞に食い込むというのは、それほど大変な労力なんだと思いますね」
その後のひとみは、タレントとしての安定した活躍はあったものの、歌手としてはヒットに恵まれなかった。デビューから3年後の81年、起死回生を賭けてディレクターの長岡和弘が提案したのは「カバー曲」であった。
「当時は現役のアイドルがカバーシングルという慣例はなかった。渡辺晋社長にも『何で昔の曲をやるんだ。自信がないのか?』と言われたくらいです」
その曲とは、同じ渡辺プロの三木聖子が5年前に出していた「まちぶせ」である。ユーミンの作詞作曲で隠れた名曲とされていた。レコーディングに臨んだひとみは、小躍りしながら長岡に伝えた。
「これをオーディションでも歌ったんです。大好きな曲だったの!」
ひとみの歌唱力が作品の切なさを増幅させ、ついに同年の紅白歌合戦にも初出場するほど大ヒット。後輩の合田は、感激のあまり紅白で泣き崩れて歌えなかったひとみの姿をほほえましく見つめた。
ただ、次の曲は誤算だったと長岡は言う。
「カバーは1曲だけにしたかったけど、渡辺社長から『次もカバーだ!』の声には逆らえませんでした」
前作と同じく三木聖子が歌った「三枚の写真」で、残念ながら「まちぶせ」ほどのセールスには結びつかなかった。
87年にはB型肝炎の発症という悲運はあったが、周囲のスタッフに支えられて、今もつややかな「まちぶせ」を聴かせてくれる。